2022/11/26

矢留彫金工房の紹介と秋田銀線細工の歴史など 2025.01.12加筆

 2017-2020年に、伝統的な地域の工芸が存続できるように、秋田銀線細工の新たな工房の立ち上げに関わりました。また、1980年代初頭から書かれるようになった秋田銀線細工の歴史記述には、史実とは異なる年号が書かれていたり、創作と思われる由来が書かれていたため、修正を図りました。地元の作り手の間では以前から不正確な歴史記述と認識されており、今後を担う作り手たちからも歴史記述の修正を希望する声がありましたので、「秋田市史」や古い秋田市の「広報」などに書かれている内容に基づいてまとめ直したものです。
 

 「矢留彫金工房の紹介」

 
〒010-0921
秋田県秋田市大町2丁目1-11
榮太楼ふるさと文化館 1階

TEL & FAX:018-838-1714
 公式サイト:https://yadome-silver.com/
 

 
秋田駅からの経路がわかりやすいように
秋田駅を背にした向きのマップです。
上が西になります。
秋田駅から徒歩10分ほどです。

 
 矢留彫金工房は、秋田銀線細工の専門性の高い、秋田市伝統の金属工芸の技術を受け継ぐ工房です。伝統の技を活かしながら、使いやすく美しい作品を、一つ一つ丁寧に手作業で製作しています。

 矢留彫金工房のある秋田市大町は、江戸時代の秋田藩初期の頃から商人の街として発達しました。秋田藩 佐竹氏の居城であった久保田城跡は、工房から徒歩数分の距離にあります。現在の千秋公園が、久保田城の跡地です。秋田藩創設当時に銀山奉行として鉱山開発を担い、家老を何人も輩出した梅津家の屋敷があった場所も、久保田城跡の入り口にあります(現在の秋田市文化創造館)。

 矢留彫金工房は令和元年(2019年)に開業しましたが、城下町文化の一つである金属工芸の流れを汲む工房を、城跡に近いこの場所で開設できたことに、縁や歴史と言ったものを感じます。

 工房のある榮太楼ふるさと文化館の2階には、東海林太郎音楽館もあります。貴重なコレクションを見ることができる、唯一無二の展示内容になっており、全国から来訪者がいらっしゃる、知る人ぞ知る施設です。
 
 
 
「秋田銀線細工について」


 秋田市の金工は、江戸時代からの城下町文化の流れを汲むものです。江戸時代の秋田に、現在の秋田銀線細工そのものがあったわけではありませんが、秋田藩 久保田城下の金工の伝統が下地となって発展し、秋田銀線細工は秋田市を代表する工芸になったものです。


 秋田銀線細工は、その名の通り細い銀の線を素材として製作される、優美で繊細な金工技法です。海外では、filigree あるいは filigrana と表記されることの多い工芸分野です。カタカナでは、フィリグリーあるいはフィリグラーナと表記されます。


 細いものでは 直径が 0.2ミリという純銀の線を2〜3本ほど撚り合わせて、素材を加工するところから、銀線細工は始まります。


 多くの手間と時間をかけて、ほぼ全ての工程を手作業で行っていきます。秋田銀線細工は、職人の手から生み出される、繊細で美しい工芸です。

 多くの方に、この素晴らしい秋田銀線細工の作品を手に取っていただけることを願っております。

 

 

「秋田銀線細工の歴史の要約」*ぎゅっと短くまとめました*

 秋田藩では江戸時代の初期から鉱山の開発が活発に行われ、豊かな鉱物資源に恵まれました。そして、秋田藩の城下では金工も盛んに行われていました。時代がかわり明治・大正になっても、秋田は日本有数の金や銀の産出量を誇り、金属工芸の産業化も図られました。特に明治後期から昭和にかけては、秋田市に工芸の指導所なども設置されて、江戸時代から培った技術に、新たな技術やデザイン感覚が加わり生み出されたのが、秋田銀線細工だと考えられます。さらに職人たちの研鑽によって、秋田市を代表する工芸になったものです。秋田銀線細工は、秋田市の無形文化財と秋田県の伝統的工芸品に指定されています。
 
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 以下に、もう少し詳しくまとめました。興味のある人、お時間のある人は、ぜひ読み進めてください!


「秋田銀線細工の歴史」

 秋田藩では、江戸時代の初期から本格的な鉱山の開発が積極的に行われました。その結果、 金・銀・銅などの産出量が豊富な、日本有数の鉱山を有する藩になりました。

 江戸時代には、刀や刀装金具・武具・甲冑などの製作に関わる工人たちが、秋田藩 佐竹氏の住まう久保田城の城下で活躍していたようです。

 秋田杢目銅 (あきたもくめがね)と言われる特殊な技術で刀の鍔(つば)なども製作されて、秋田藩の金工技術は武家向けの作品作りの中で向上したものと思われます。

 久保田城下では職人町も形成されていました。生活用品の鍛冶や錺職なども腕を振るっていたと思われます。現在でも鍛冶町や鉄砲町などの地名に、久保田城下の職人町の名残があります。

 時代が変わり、明治・大正の頃になっても秋田は鉱業が盛んで、日本有数の銀の産出量を誇り、豊富な鉱物資源に恵まれていました。当時の冊子などには、秋田市の銀細工は純度の高さが評価されていたことが書かれています。

 新しい時代の産業化が図られる中で、さらに商品価値を高める機運が高まり、明治後期から昭和初期の頃には秋田市に工芸の指導所などが開設されました。金銀細工・彫金・意匠などの専門家も招聘されて、技術とデザイン性を高める事業が進められたようです。

 その中で、江戸時代から培った技術に、新たな技術とデザイン性が加わり生まれたのが、秋田銀線細工だと考えられます。当時の工人たちの意欲と研鑽の賜物だと思います。

 城下町だった頃からの金属工芸の歴史と伝統があり、純度の高い製品作りに定評のあった秋田市だからこそ、純銀を多用し繊細な技術が必要となる秋田銀線細工が根付き発展したのでしょう。

 明治後期から大正にかけて、秋田市で盛んに作られた豪華な花嫁かんざしには、現在の秋田銀線細工にも直接つながる技法と作風が感じられますが、当時の秋田市で作られていた銀製品の多くは、銀細工あるいは金銀細工と総称されており、銀線細工という言葉は使われていませんでした。

 昭和も戦後になると、細い銀線を使う繊細な技法が注目を集め、銀線細工という言葉が使われるようになり、秋田銀線細工は秋田市の工芸としてその名が広く知られるようになりました。戦後の復興期には、技術もデザインも、さらに向上が図られたものと思われます。

 この頃の秋田銀線細工は、戦後の秋田市の復興を担う産業の一つでもあったようです。秋田市が全面的に支援して中央からの受注に対応したことなどが、市の古い広報紙などからもうかがい知ることができます。今で言う所の、六次産業化や産地ブランド化に通じる事業であったかもしれません。

 昭和27年には秋田市立の工芸学校が設立され、秋田銀線細工の作り手の養成も行われました。何度か校名は変わってきましたが、現在も秋田市が運営する工芸の学校では授業で銀線細工が教えられており、現在秋田市内で活動するほとんどの作り手も、この学校の卒業生です。地元の人材が、いまも秋田銀線細工を支えています。

 世界各地でフィリグリー製品は作られていますが、秋田銀線細工には、主に純銀を使うという特徴があります。銀を素材にフィリグリー製品を作る場合は、純度92.5%の925銀が使われることが多いのですが、秋田銀線細工では、純銀が主な素材として使われています。

 製品は、純銀独特の色や艶を持つ仕上がりになりますし、延展性の高い純銀を使うことで、より繊細で優美な細工が可能になります。ほかにも、粉ロウを使うなどの工法上の特徴もありますし、純銀の白さと輝きのコントラストを活かした、秋田銀線細工独特の特徴的な仕上げ法などもあります。

 現在も、伝統的な技術や特徴を大切にしながら、秋田銀線細工の製品づくりが続けられています。


 
「新たな取り組みをこれからも」

 長い歴史と先人たちの工夫と研鑽の積み重ねによって、秋田銀線細工が形作られてきたわけですが、その時代時代に新たな試みに取り組んできたからこそ、伝統的な工芸技術が今に伝わっているのだと思います。

 秋田市内に新たに設立された矢留彫金工房では、秋田銀線細工の可能性をさらに広げるために、新たなデザインや工法にも積極的な取り組みが行われています。

 他の分野や素材との共同制作も試みられており、川連塗りや樺細工などの秋田の伝統工芸や、雛人形メーカーとの共同制作では、新しい表現と新しい作品が生み出されています。

 以前は分業制であった製作現場も、いまでは全ての工程を一人の作り手が手がける事が多くなりました。秋田銀線細工には、無限に広がるデザインや技法の可能性があり、絶えず新しい作品作りに取り組むことができる、作り手にとってもやりがいのある工芸です。

 秋田銀線細工の伝統を継承したうえで、作り手の個性と創作性を活かして、新たな形を作り出して行くことができるように、製作が続けられています。今に生きる工芸・身近なフィリグリージュエリー(filigree jewellery)作品を中心に、丁寧な物づくりが行われています。
 

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「秋田銀線細工についてもう少し」

◯銀線細工って素材は銀だけなの?

  純銀を主な素材として使うことが多いのですが、技法としては金やプラチナなどの素材でも製作することができるものです。

 秋田銀線細工でも、実際の製作においては素材が銀に限定されているわけではないので、名称については悩ましいものがありますが、秋田銀線細工という名称は広く定着しており、純銀が多用されている技法であることをよく表していると思います。

 

◯金を素材にしたら、何て言うの? 他の素材では? 技法の歴史も少々。

 金を素材にして作った場合は、「銀線細工」と同じように、「金線細工」という言葉を使うと良さそうです。

 「銀線細工」「金線細工」のように細い線を使った金工の技法を、素材を限定しないで言う時には、他の技法名がいくつかあります。

 「細金細工(さいきんざいく・ほそがねざいく)」
 「細線細工(さいせんざいく)」
 「線条細工(せんじょうざいく)」
 「平戸細工(ひらとざいく)」
 「フィリグリー(filigree:英語)」
 「フィリグラーナ(filigrana:ポルトガル語)」

 上記の言葉の意味には、それぞれに幅があり単一の内容を表すわけではありませんが、どの言葉も、素材を限定しない細い線を使った金工の技法を表す言葉として使うことができるものです。

 世界各地で今も行われているこの技法の起源は、紀元前2000〜3000年という古い年代まで遡ることができるそうです。古代エジプトや古代メソポタミアなどの文明史とともに発達した、金工技術の一つだと思われます。

 人類史の中では、銀よりも金の利用のほうが早くから活発に行われていたので、古代の作品の多くは金製品だったようです。細金細工は、粒金細工などの他の技法とともに用いられることも多く、多彩な作品が作られていたようです。

 古くから世界中に広がり各地で行われた技法で、ロシアや中国や朝鮮などの、日本に近い大陸の国々でも早い時期から行われていたようです。日本でも古墳時代の耳飾りなどが出土していますが、金を素材に作られた大陸からの渡来品だと思われます。

 国内での5〜6世紀前後の出土品を写真で見ると、現在の銀線細工とは異なり、一部に線材が使われているという印象のものですが、大陸では現在の銀線細工にも通じるような複雑で繊細な作品も作られていたようです。あまり専門的なことはわからないのですが、アジアでも古くから行われていたのは間違いないようです。 

 また、南蛮貿易を通じて、西洋の製品や技術が平戸に伝わったとされているようです。平戸にポルトガル船がはじめて入港した16世紀半ば以降、貿易港として栄えた期間の17世紀初期の頃までの間の出来事だったということになるでしょうか。そのため「平戸細工」という言葉があり、「種子島」(火縄銃)と同じで、伝来した地名がそのまま品名や技法名に使われたのだと思われます。

 技法名に平戸の地名が入っていますが、平戸が平戸細工(銀線細工)の産地であったという史実は無いようです。「平戸細工」については、地金の上に細線による模様を施す技法と説明している記述も見られますが、地金を用いない細線による透かしの表現も含めて使われている、彫金の一技法を表す言葉として現在は使われているのだと思います。

 余談ですが、長崎には平戸焼きという焼き物があります。佐世保に窯元さんがあるようです。その特徴の一つに透かし彫りの技術がありますが、繊細な透かしの表現には銀線細工に通じる物を感じます。「平戸」という言葉には、繊細な表現に関連する何かがあるのかもしれません。

 細線を使った技法は古くは大陸から伝来し、錺職人などの仕事の中で、日本でも長く行われてきたものなのではないかと想像しております。日本の工芸史・技術史・産業史にも関連することだと思いますので、専門家や研究者に語っていただくべき事柄だと思いますが、こういった古くからの技術で今も可能性にあふれた物づくりができるというのは、とても素晴らしいことだと思います。

 ここで紹介した技法名には、金工の技法名を表す専門的な用語という他に、商品用語・ファッション用語としての面もありますが、その場合は「銀線細工」「金線細工」「フィリグリー」という言葉を目にすることが多いと思います。 



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「秋田銀線細工の歴史記述について」

 秋田銀線細工の歴史記述については、統一された信頼性の高いものがなかったため、当ページの歴史記述は過去の資料を調べて独自にまとめたものです。

 そのため、従来の歴史記述とは異なる部分があります。特に以下の2点については、1980年代から秋田銀線細工の説明に広く使われてきた内容ですが、実は裏付けのない不正確な記述です。定説のように広がってしまった記述ですが、矢留町金工房が考える秋田銀線細工の歴史には含まれません。


1.「日本での銀線細工は、天文年間(1532年~1555年)にオランダ人によって長崎の平戸に伝えられたことが始まりと言われています。」

2.「秋田に銀線細工の技法がもたらされたのは、秋田藩と平戸藩の江戸屋敷が近所にあったことによって交流があったことによるものと言われています。」
 
下記は、秋田銀線細工の歴史に関係する余談です。

*1.については、日本史の年表とは異なる点があり、不正確な内容です。オランダ船が平戸に入港するのは、1609年になってからのことです。このオランダ人によって伝えられたという説は、秋田銀線細工の歴史記述の中で書かれるようになった説だと思われます。この記述が見られるようになるのは、1980年代前半からのことです。日本への伝来については日本史や技術史などの専門性を含む事柄なので、年号や国名などを安易に特定したり書いたりすることはできないと考えております。
 
(参考にですが、ポルトガル船は1550年に平戸に入港しており、ポルトガルは今でもフィリグラーナの産地として有名です。ポルトガルでフィリグラーナが盛んになったのは、17世紀になってからというのが定説としてあるようです。)
 
*2.については、秋田藩の分家(支藩)の秋田新田藩の江戸屋敷と、平戸藩の江戸屋敷が近かったのは事実です。1701年に立藩された秋田新田藩は、参勤交代を行わない江戸定府の大名でした。秋田藩佐竹氏と平戸藩松浦氏の間には、身内の婚姻などにより一種の親戚関係があり、実際に交流はあったと考えられるそうです。ただし、秋田銀線細工の歴史と結びつけるには時代としても難しいものがあり、それを示す品物や文献などもありません。このような藩邸が近かったから技術が伝わったという記述が秋田銀線細工の歴史の文章に現れるのは1983年頃からのようです。それ以前に同様の記述がされているものは、今のところ確認できておりません。平戸細工という地名の入った技法名と秋田銀線細工をむすびつけて、古い歴史を演出したいという意図が、当時あったのではないかと思われます。
 
*日本に技術を持ち込んだ国や持ち込まれた年号を独自に考えて記述し、しかもそれが史実と照らし合わせて明らかに間違っていたり、秋田への伝来の歴史を古く演出するような記述が生まれたのは、1974年に始まった国の伝統的工芸品の指定制度で、秋田銀線細工が指定されなかった事が影響したのではないかと、個人的には想像しています。指定の要件として、最低でも100年の歴史が必須だからです。伝統的工芸品の指定を望む当時の金工関係者の書いた文章なども確認できます。また、1979年に出版された本の中で、県外から秋田に来て活躍していた作り手が、銀線細工は戦後に県外から秋田に持ち込まれたと発言している取材記事が掲載されており、地元の人材と県外から来た人材の間で、秋田の金工の歴史観の食い違いなどもあったのではないだろうかと想像されます。秋田杢目銅なども含めて「秋田金銀細工」というくくりであれば、国の伝統的工芸品の指定も現実的なものになったかもしれませんが、秋田銀線細工では難しかったであろうと思います。

*ほかにも、「銀線細工が藩政時代から盛んに行われていた。」「歴代藩主に保護奨励された。」「佐竹氏が秋田に来た時に連れてきた細工師が銀線細工の技術を持ち込んだ。」といった内容の記述も見ることもありますが、これらはもともと「秋田の金工・金銀細工・銀細工」の歴史として書かれていたもので、「銀線細工」の説明とは別に書かれていた内容です。秋田市により書かれた公的な文章などでも、1980年代から単語の扱いや対象の混乱が見られる記述が多くなります。2000年以降の文章には、内容を理解しないままに過去の文章をつなげたような、作文として成立しているとは言いがたい、難解で混乱した説明文も確認できます。職員の勉強不足があったものと思います。
 
*上記のように、日本史の年表とも整合性がなく、裏付けの無い秋田銀線細工の歴史記述が長く使われてきました。1980年代初頭からですので、すでに40年ほどのあいだ定説のように扱われてきたものです。秋田市や秋田県の公的な文章でも何度も紹介されてきた歴史記述なので広く使われており、ネットで秋田銀線細工の歴史を検索すると、多くはこの正しいとは言えない歴史記述が出て来るのが現状です。

*秋田銀線細工の技術については、明治以降に起源があるとする記述でも、「明治の末に伝えられた。」「明治末期から大正にかけて考案された。」「昭和の初期に技術導入を図った。」と言った、異なる内容のいくつかの記述が見られます。様々な資料から推察・検討すると、江戸時代から培われてきた秋田市の金属工芸に、明治後期から昭和にかけての時期に継続的に新たな技術やデザイン感覚が取り入れられて、現在の秋田銀線細工が形作られてきたと言う大きな流れがあるのは間違いないと思われます。
 
*明治末頃の「秋田県案内」という秋田の様々な分野を記述している本には、金工の説明として次のように書かれています。「金銀細工は技術必ずしも精巧ならざるも特産を利用し純分多きを以て尊ばる 近年当業者の鋭意奮励と共に意匠彫刻も年々進歩し年額二十万円を参するに至れり而して産地は秋田市なり」。秋田は金銀の産出量が桁違いに多く、東洋一と言われた院内銀山をはじめとした鉱山県でしたので、技術の評価よりも純度の高さの評価が高く、それが当時の売りだったのだと思います。
 
*大正7年の「秋田県案内」では、年々講習会なども開催して技術・意匠が向上していることが書かれています。昭和5年の「秋田県案内」では、再び純度の高さが優れていることが書かれています。各年代の「秋田県案内」に掲載されている広告を含めて、冊子中に銀線細工という単語は見当たりません。
 
*「秋田市史」には、明治29年の記述として「銀・銅産額が日本一だったこともある鉱業県の名に反して、二次加工品は微々たるもので、とりあえず県産資源の有効活用に焦点を合わせた目的が掲げられた。」とあります。その後、明治・大正の時代に、いくつかの研修施設を創設したり、意匠の専門家を招聘したことが秋田市史では書かれています。純度の高さが評価されていた金工に、新たな加工技術やデザイン性を取り入れるということが考えられていたのだと思います。

*秋田市史には、昭和のはじめの事として以下のような内容が記述されています。昭和2年:秋田県工業試験場が完成。この頃に秋田市の金工業界のまとめ役だったのが、竹谷金之助・竹谷善之助の兄弟。昭和3年以降:東京美術学校出身の主任技師を始め、複数の技術者により意匠と技術の向上が図られる。金銀細工に新潟から田中栄蔵、地元の根田雄之助。彫金に東京から森田一静などを招聘。昭和12年:金工部門を、県立工業指導所と組織改編。・・・昭和初期に様々な試みが行われていたことがわかりますが、その後戦争などの時期もあり低調な時期を迎えることになります。
 
* 1940年(昭和15年)7月7日に「奢侈品等製造販売制限規則」(通称「七・七禁令」)が施行されました。それは、戦争遂行や軍需生産の拡大に直接貢献しない高級織物や貴金属、装飾品などの製造や販売を禁止する勅令でした。
 
*昭和28年の市の広報には下記のような記述があります。
市の広報:No.35- 1953-03-01 -
中央進出のブローチ◇銀線細工に朗報
 銀のカンザシ等で伝統をほこる秋田の「銀線細工」も永い間忘れられて貴重な特殊技術の衰微が関係者によっておしまれていたが、その繊細な味とたくみなハンド・ワークの持味が新しいアクセサリーとして外国婦人に珍重されて東京から銀線細工の生産についての問合せなどがあり、市商工課では二月二十四日、東京美術銀器工業協同組合、手塚理事長外一名を招いて市内業者十名とともに打合せの結果、即日大量の受注を見て、秋田の銀細工が本格的に中央市場に進出することになった。第一回注文はブローチ二種四百個で工作費のみ二〇万円であるが、受入態勢のでき次第、月産百万円まで三カ年間前金持参で引受けるとの朗報に湧いている。銀線細工のブローチ等は輸出までは応じきれない量産化のできない工芸品で、戦前技術面で指導されている強みもあり“秋田の特産工芸”として大きく浮びでた。近々PXや近く開店の松屋、三越等の一流所でのみ秋田の製品が販売されることになる。なお工賃の受払と製品の検査には商工課が当り「責任のある秋田の製品」の中央進出に拍車をかけることになる。「秋田銀線細工協同組合」(仮称)の施設の補助、技術指導等には万全の対策をなしている。・・・アメリカの占領が終わった年です。進駐軍の兵士の買う土産物などとしても、銀線細工は人気があったそうです。当時は、営業や決済業務や製品の品質保証にまで関わり、秋田市役所が施策の一つとして銀線細工の興隆に取り組んでいたことがわかります。戦後の秋田市の有力な復興産業でもあったのでしょう。
 
*昭和28年発行の冊子「観光秋田の栞・秋田美人と民芸」の中では、「武士芸の銀細工」という見出しで記事があり、江戸時代には優良な銀山が開発されたことによって、禄の少ない武士の仕事として銀細工・武器金具製作が藩主の命で行われたという記述があります。大東亜戦争以前に盛んだった金銀細工は戦時の切り替えの悲運に遭い、戦後8年にしてようやく復活を見てきたという内容も書かれています。そして昭和28年当時に製作されていた作品名が列挙される中に「時代の寵児銀線細工」という記述があります。
 
*昭和30年の市の広報には下記の取り組みが紹介されています。
市の広報:No.71- 1955-02-01 -
昭和27年
▽工芸技術者の養成のため市立工芸学校を開校し金、木工の両科を設置した。
昭和28年
▽秋田銀器工芸協同組合を設立し銀線細工の隆盛を図った。
▽工芸学校に別科を新設して銀線細工の技術習得とその発展向上につとめた。
 
*昭和になってからの取り組みを見るだけでも、秋田銀線細工は秋田市が時間とお金を掛けて市の施策として取り組んだ結果として盛んになった面があることがわかります。たまたま江戸時代の藩邸が近かったという昔話のような歴史の成り立ちがあるのではなく、豊富な資源がある中で、先人が明確な目的をもって築いてきた歴史の上に成り立っているのが秋田銀線細工です。だからこその、秋田市の伝統工芸なのだと思いますし、秋田市の財産なのです。
 
*作り手がわずか数人となり、途絶える寸前の秋田銀線細工を再興するためにも、嘘の無い地元の歴史に基づいた秋田銀線細工の歴史記述が必須でしたので、今後を担う新たな工房の立ち上げと合わせて、創作ではない歴史をまとめ直しました。
 
*秋田県の伝統工芸のページの歴史記述などはすでに修正していただいております。また、市の広報や地元の各種メディアで秋田銀線細工の記事が書かれる場合には、本来の歴史記述をしていただけるように協力をお願いしております。秋田市が長い間多くの投資をして築き上げ、多くの作り手の研鑽があって今まで続いて来た工芸ですので、地元の財産の一つとして、技術と作り手と歴史も含めて大切にしていただければと思います。
 

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「秋田市の無形文化財・秋田県の伝統的工芸品指定について」

 秋田市の無形文化財の指定を受けているのは、「秋田銀線細工技術伝承保存会」です。また、秋田県の伝統的工芸品の指定を受けているのは、「秋田銀線部会」です。

 それぞれの会についての詳細や活動はわからず、資料で名称が確認できるだけなので、指定を受けた「当事者」が現在では不明確であったり、すでに会員が他界されている場合もあるようで、不明な点が少なくありません。ですが、秋田銀線細工が市と県の指定を受けているのは重要な事実ですので、秋田銀線細工が秋田市の無形文化財と秋田県の伝統的工芸品に指定されていることを、秋田銀線細工の歴史の要約の文章には書きました。


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「最後に藩名について」
 
 佐竹氏が治めた秋田には、秋田藩と久保田藩の二つの呼び名があります。江戸時代には藩名というものが無くて、藩名は明治時代になってから付けられたものですが、まず明治2年に久保田藩と言う名が政府により付けられた後、明治4年に地元からの要望で秋田藩に変更されたそうです。この変更がなければ、秋田県は久保田県になっていた可能性もあったのかもしれませんね。
 
 秋田市の学芸員に確認したところ、行政の文章の記述では秋田藩とするのが標準とのことでしたので、このページでも秋田藩と記述しています。Wikipediaの見出しは久保田藩になっていますが、この藩名にこだわりのある編集者がいるのかもしれません。
 
 秋田の藩名について書いているネット上のページで、秋田の人は最近まで秋田を「あぎだ」と発音していたはずで、「あきた」になったのは平成になってからという、びっくりするような憶測が書かれているのを見かけました。でも、私が子供の頃から秋田は「あきた」でしたし、もっとずっと前から「あきた」だったと思います。
 
 秋田銀線細工の歴史も含めて、ネット上の情報はじっくり考えてみる事が必要ですね。私が書いた文章も、検証に耐えられるようにできるだけ多くの資料を調べたつもりですが、不十分なところがあるかもしれません。きっと今後の秋田銀線細工の作り手たちが、もっとしっかりしたものにしてくれると思います。
 
 
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 このページの歴史記述については、過去の各種の資料を調べ 、業界の人たちの話も伺い、学術分野の工芸の専門家にも相談し、秋田市の学芸員にも意見を伺いました。その上で、過去の創作と思われる点を修正し、初期の秋田市の広報に書かれていた歴史記述に沿った形で、説明を補強しまとめたものです。
 
 正確でなくても、ロマンがありそうな歴史記述だから、従来のままで良いのではないかという声も一部に聞いたのですが、まさに歴史の一部として今も製作を続ける作り手たちは、創作ではない歴史の中で、今後の活動をしていきたいと言う明確な意志を持っておりました。
 
 地域に根ざした伝統工芸には、この地域だからこそ成立してきた土地との深い関わりが有り、地域の歴史の中で語られるべき事柄を多く持っています。そこに、この地でしかできない物づくりの広く奥深い世界があるのだと思います。
 
 秋田銀線細工には、今まで培われてきた伝統と、まだまだ未開拓なこれからの大きな可能性があります。これからもきっと、いままで見たこともないような作品が創り出されていくと思います。
 
 後継者の育成など、これから本格化させなくてはならないことが多くありますが、秋田銀線細工の歴史が今後も長く続くことを願います。