「矢留彫金工房の紹介」
秋田駅から徒歩10分ほどです。
矢留彫金工房のある秋田市大町は、江戸時代の秋田藩初期の頃から商人の街として発達しました。秋田藩 佐竹氏の居城であった久保田城跡は、工房から徒歩数分の距離にあります。現在の千秋公園が、久保田城の跡地です。秋田藩創設当時に銀山奉行として鉱山開発を担い、家老を何人も輩出した梅津家の屋敷があった場所も、久保田城跡の入り口にあります(現在の秋田市文化創造館)。
矢留彫金工房は令和元年(2019年)に開業しましたが、城下町文化の一つである金属工芸の流れを汲む工房を、城跡に近いこの場所で開設できたことに、縁や歴史と言ったものを感じます。
工房のある榮太楼ふるさと文化館の2階には、東海林太郎音楽館もあります。貴重なコレクションを見ることができる、唯一無二の展示内容になっており、全国から来訪者がいらっしゃる、知り人ぞ知る施設です。
秋田銀線細工は、その名の通り細い銀の線を素材として製作される、優美で繊細な金工技法です。海外では、filigree あるいは filigrana と表記されることの多い工芸分野です。カタカナでは、フィリグリーあるいはフィリグラーナと表記されます。
多くの手間と時間をかけて、ほぼ全ての工程を手作業で行っていきます。秋田銀線細工は、職人の手から生み出される、繊細で美しい工芸です。
「秋田銀線細工の歴史の要約」*ぎゅっと短くまとめました*
以下に、もう少し詳しくまとめました。興味のある人、お時間のある人は、ぜひ読み進めてください!
「秋田銀線細工の歴史」
秋田藩では、江戸時代の初期から本格的な鉱山の開発が積極的に行われました。その結果、 金・銀・銅などの産出量が豊富な、日本有数の鉱山を有する藩になりました。
江戸時代には、刀や刀装金具・武具・甲冑などの製作に関わる工人たちが、秋田藩 佐竹氏の住まう久保田城の城下で活躍していたようです。
秋田杢目銅 (あきたもくめがね)と言われる特殊な技術で刀の鍔(つば)なども製作されて、秋田藩の金工技術は武家向けの作品作りの中で向上したものと思われます。
久保田城下では職人町も形成されていました。生活用品の鍛冶や錺職なども腕を振るっていたと思われます。現在でも鍛冶町や鉄砲町などの地名に、久保田城下の職人町の名残があります。
時代が変わり、明治・大正の頃になっても秋田は鉱業が盛んで、日本有数の銀の産出量を誇り、豊富な鉱物資源に恵まれていました。当時の冊子などには、秋田市の銀細工は純度の高さが評価されていたことが書かれています。
新しい時代の産業化が図られる中で、さらに商品価値を高める機運が高まり、明治後期から昭和初期の頃には秋田市に工芸の指導所などが開設されました。金銀細工・彫金・意匠などの専門家も招聘されて、技術とデザイン性を高める事業が進められたようです。
その中で、江戸時代から培った技術に、新たな技術とデザイン性が加わり生まれたのが、秋田銀線細工だと考えられます。当時の工人たちの意欲と研鑽の賜物だと思います。
城下町だった頃からの金属工芸の歴史と伝統があり、純度の高い製品作りに定評のあった秋田市だからこそ、純銀を多用し繊細な技術が必要となる秋田銀線細工が根付き発展したのでしょう。
明治後期から大正にかけて、秋田市で盛んに作られた豪華な花嫁かんざしには、現在の秋田銀線細工にも直接つながる技法と作風が感じられますが、当時の秋田市で作られていた銀製品の多くは、銀細工あるいは金銀細工と総称されており、銀線細工という言葉は使われていませんでした。
昭和も戦後になると、細い銀線を使う繊細な技法が注目を集め、銀線細工という言葉が使われるようになり、秋田銀線細工は秋田市の工芸としてその名が広く知られるようになりました。戦後の復興期には、技術もデザインも、さらに向上が図られたものと思われます。
この頃の秋田銀線細工は、戦後の秋田市の復興を担う産業の一つでもあったようです。秋田市が全面的に支援して中央からの受注に対応したことなどが、市の古い広報紙などからもうかがい知ることができます。今で言う所の、六次産業化や産地ブランド化に通じる事業であったかもしれません。
昭和27年には秋田市立の工芸学校が設立され、秋田銀線細工の作り手の養成も行われました。何度か校名は変わってきましたが、現在も秋田市が運営する工芸の学校では授業で銀線細工が教えられており、現在秋田市内で活動するほとんどの作り手も、この学校の卒業生です。地元の人材が、いまも秋田銀線細工を支えています。
世界各地でフィリグリー製品は作られていますが、秋田銀線細工には、主に純銀を使うという特徴があります。銀を素材にフィリグリー製品を作る場合は、純度92.5%の925銀が使われることが多いのですが、秋田銀線細工では、純銀が主な素材として使われています。
製品は、純銀独特の色や艶を持つ仕上がりになりますし、延展性の高い純銀を使うことで、より繊細で優美な細工が可能になります。ほかにも、粉ロウを使うなどの工法上の特徴もありますし、純銀の白さと輝きのコントラストを活かした、秋田銀線細工独特の特徴的な仕上げ法などもあります。
現在も、伝統的な技術や特徴を大切にしながら、秋田銀線細工の製品づくりが続けられています。
「新たな取り組みをこれからも」
長い歴史と先人たちの工夫と研鑽の積み重ねによって、秋田銀線細工が形作られてきたわけですが、その時代時代に新たな試みに取り組んできたからこそ、伝統的な工芸技術が今に伝わっているのだと思います。
秋田市内に新たに設立された矢留彫金工房では、秋田銀線細工の可能性をさらに広げるために、新たなデザインや工法にも積極的な取り組みが行われています。
他の分野や素材との共同制作も試みられており、川連塗りや樺細工などの秋田の伝統工芸や、雛人形メーカーとの共同制作では、新しい表現と新しい作品が生み出されています。
以前は分業制であった製作現場も、いまでは全ての工程を一人の作り手が手がける事が多くなりました。秋田銀線細工には、無限に広がるデザインや技法の可能性があり、絶えず新しい作品作りに取り組むことができる、作り手にとってもやりがいのある工芸です。
秋田銀線細工の伝統を継承したうえで、作り手の個性と創作性を活かして、新たな形を作り出して行くことができるように、製作が続けられています。今に生きる工芸・身近なフィリグリージュエリー(filigree jewellery)作品を中心に、丁寧な物づくりが行われています。
「秋田銀線細工についてもう少し」
◯銀線細工って素材は銀だけなの?
純銀を主な素材として使うことが多いのですが、技法としては金やプラチナなどの素材でも製作することができるものです。
秋田銀線細工でも、実際の製作においては素材が銀に限定されているわけではないので、名称については悩ましいものがありますが、秋田銀線細工という名称は広く定着しており、純銀が多用されている技法であることをよく表していると思います。
◯金を素材にしたら、何て言うの? 他の素材では? 技法の歴史も少々。
金を素材にして作った場合は、「銀線細工」と同じように、「金線細工」という言葉を使うと良さそうです。
「銀線細工」「金線細工」のように細い線を使った金工の技法を、素材を限定しないで言う時には、他の技法名がいくつかあります。
「細金細工(さいきんざいく・ほそがねざいく)」
「細線細工(さいせんざいく)」
「線条細工(せんじょうざいく)」
「平戸細工(ひらとざいく)」
「フィリグリー(filigree:英語)」
「フィリグラーナ(filigrana:ポルトガル語)」
上記の言葉の意味には、それぞれに幅があり単一の内容を表すわけではありませんが、どの言葉も、素材を限定しない細い線を使った金工の技法を表す言葉として使うことができるものです。
世界各地で今も行われているこの技法の起源は、紀元前2000〜3000年という古い年代まで遡ることができるそうです。古代エジプトや古代メソポタミアなどの文明史とともに発達した、金工技術の一つだと思われます。
人類史の中では、銀よりも金の利用のほうが早くから活発に行われていたので、古代の作品の多くは金製品だったようです。細金細工は、粒金細工などの他の技法とともに用いられることも多く、多彩な作品が作られていたようです。
古くから世界中に広がり各地で行われた技法で、ロシアや中国や朝鮮などの、日本に近い大陸の国々でも早い時期から行われていたようです。日本でも古墳時代の耳飾りなどが出土していますが、金を素材に作られた大陸からの渡来品だと思われます。
国内での5〜6世紀前後の出土品を写真で見ると、現在の銀線細工とは異なり、一部に線材が使われているという印象のものですが、大陸では現在の銀線細工にも通じるような複雑で繊細な作品も作られていたようです。あまり専門的なことはわからないのですが、アジアでも古くから行われていたのは間違いないようです。
また、南蛮貿易を通じて、西洋の製品や技術が平戸に伝わったとされているようです。平戸にポルトガル船がはじめて入港した16世紀半ば以降、貿易港として栄えた期間の17世紀初期の頃までの間の出来事だったということになるでしょうか。そのため「平戸細工」という言葉があり、「種子島」(火縄銃)と同じで、伝来した地名がそのまま品名や技法名に使われたのだと思われます。技法名に平戸の地名が入っていますが、平戸が平戸細工の産地であったという史実は無いと思われます。「平戸細工」については、地金の上に細線による模様を施す技法と説明している記述も見られますが、地金を用いない細線による透かしの表現も含めて使われている言葉のように思います。技術的にはどちらもあって当然の表現ですが、伝来当時の「平戸細工」がどのようなものであったのか、当時の作品や資料を見たことが無いので、詳細はわかりません。
細線を使った技法は、錺職人などの仕事の中で、日本でも長く行われてきたものなのではないかと想像しております。日本の工芸史・技術史・産業史にも関連することだと思いますので、専門家や研究者に語っていただくべき事柄だと思いますが、こういった古くからの技術で今も可能性にあふれた物づくりができるというのは、とても素晴らしいことだと思います。
ここで紹介した技法名には、金工の技法名を表す専門的な用語という他に、商品用語・ファッション用語としての面もありますが、その場合は「銀線細工」「金線細工」「フィリグリー」という言葉を目にすることが多いと思います。
「秋田銀線細工の歴史記述について」
秋田銀線細工の歴史記述については、統一された信頼性の高いものがなかったため、当ページの歴史記述は過去の資料を調べて独自にまとめたものです。
そのため、従来の歴史記述とは異なる部分があります。特に以下の2点については、1980年代から秋田銀線細工の説明に広く使われてきた内容ですが、実は裏付けのない不正確な記述です。
1.「日本での銀線細工は、天文年間(1532年~1555年)にオランダ人によって長崎の平戸に伝えられたことが始まりと言われています。」
それぞれの会についての詳細や活動はわからず、資料で名称が確認できるだけなので、指定を受けた「当事者」が現在では不明確であったり、すでに会員が他界されている場合もあるようで、不明な点が少なくありません。ですが、秋田銀線細工が市と県の指定を受けているのは重要な事実ですので、秋田銀線細工が秋田市の無形文化財と秋田県の伝統的工芸品に指定されていることを、秋田銀線細工の歴史の要約の文章には書きました。