2021/03/21

サギ:何を食べてる?

 

 最近、近くの池(昔の久保田城の内堀)にいる、白いサギです。捕食行動をよく見る割には、動きが速いのと獲物が小さいために、何を食べているのかよく見えませんでした。

 

 写真で撮影すると、小魚を食べているのがわかりました。くちばしで軽く宙に浮かせて、ぱっくんごっくんという感じで、いい食べっぷりです。
 
 

 サギは水の中を静かに歩いて、獲物に気づかれないようにしている印象がありましたが、春先はまだ獲物になる生き物の活動が低調なのか、わざと足で水底をゴソゴソ探ったり、つんと飛び出た2本の尾羽(?)を水に付けて震わせているような動作をしていました。獲物が動くように仕向けているようにも見えましたが、実際どうなのかはわかりません。
 
 

 こちらは、以前のブログに2020年06月に投稿した写真です。この頃よく来ていたのはアオサギでした。季節により獲物も変わるのか、このサギがアメリカザリガニを捕食している場面を連続して何度か見ました。
 
 

 もう少し遡って、こんどは以前のブログに2017年09月に投稿した写真です。このときは、ドジョウのような体型が細長い魚を捕食していました。雷魚の幼魚かもしれないと思いましたが、よくわかりません。
 
 

 くちばしを1周ぐるりと回るくらいの長さと柔軟性のある身体を持つ魚類です。解像度の低いカメラで撮影した画像から切り抜いたので、モヤっとした画像で鮮明に見えないのが残念でした。
 
 

 以前のブログに2014年06月に投稿したアオサギの写真です。この時サギが立っていた場所は、今はもっと浅くなっています。
 
 

 この池では大きめと思える魚を、このときは捕まえていました。もともと大きな魚影を見ることの無い池ですが、最近は生物の生息環境がますます悪くなってきているような気がします。

 私が知っているだけでも、千秋公園の周囲の水場の生態系はかなり変わってしまいました。千秋公園の内堀も、それなりに綺麗だった頃もあるのですが・・・。
 
 

2021/03/20

TY-ブレードホルダー

 「TY工具シリーズ」は、私が自分で使いたいと思う道具を考えて、デザインや試作をしたのち、加工してくださるYOSIBUさんがさらにアイデアを加えてくださり完成に至る、オリジナル工具シリーズです。いずれの製品も、数に限りがあります。  
 
(企画デザイン・製作:TUZIE + YOSIBU)
 
  ある程度汎用性のあるように作ったブレードホルダーです。細かな裁断に使いやすい、軽量で細身のデザインです。
 
 刃は附属しませんので、別売りの替刃をお買い求めのうえお使い下さい。クラフト社で販売されている、28156 ストレートブレード(2枚入り)と28157 カーブブレード(2枚入り)がおすすめです。画像にある2種類の替刃です。
 
 以下の説明では、主にカーブブレードを用いて説明します。
 
 少ない本数ですが、クラフト社を通して販売される予定です。
 
 

 上の画像の赤い色を塗ったネジ2本が、刃を固定するためのネジです。ふだん操作するのはこの2本のネジだけです。他のネジは刃の固定には無関係なネジですが、もしも緩んだときには締めてください。ネジの赤い色は、説明のために塗ったものなので、製品のネジに色はついていません。
 
 細身のデザインで仕上げるために、ガラスエポキシ製の本体に直接ネジ山を切る仕様にしています。強度のある素材なので、普通に刃を固定する程度は問題はありませんが、ネジを強く締めすぎると本体のネジ山が破損する恐れがあります。 細身の精密ドライバー(マイクロドライバー)などを使うと、締めすぎのトラブルは起こりにくいのでおすすめです。
 
 

  使わないときには、刃を逆さにして収納しておくこともできます。安全に保管や持ち運びができます。刃の取り付け・取り外しの際には、刃で怪我をしないようにお気をつけ下さい。また、刃を逆さに取り付けるときには、刃がネジに接触して痛まないようにご注意ください。
 
 

 左のホルダーは、左利きの人におすすめの刃の取り付け向きです。右のホルダーは、右利きの人におすすめの刃の取り付け向きです。先端の2つのネジの頭が、刃の取り付け方や作業によっては視線の邪魔をするときがあるので、手に持ったときの内側に先端のネジの頭が来ないようにします。
 
 

 加工に必要な小さな穴を、一部の製品の本体の両端に設けている場合があります。上の画像の真ん中あたり、左側ホルダーの大きな穴のそばに一つ、そして右側ホルダーの先端のネジの間あたりにもう一つ、小さな穴があります。
 
 この穴は、ホルダーの正確な加工に必要なもので、製品の機能には影響しません。この小さな穴の有無は、主に材料の形状やサイズに応じて変わります。

 

 おすすめした替刃は、薄くしなる刃なので極端に厚い革の裁断には向きませんが、細かい曲線などが切りやすく、繊細な切り抜き作業にも向いています。また、切り終わりの刃の角度を調整しやすいのもカーブブレードの特徴です。



 替刃式の刃ですが、研いで使うことができます。左が初期状態で、この形のまま研ぐこともできますし、右のように多少形を変えて研ぐこともできます。
 
 カーブブレードの研ぎ方の一例を、以下に簡単に紹介します。



 カーブブレードは、空き缶の曲面を利用しての刃研ぎが簡単でおすすめです。左の缶には耐水ペーパー#1000を巻いています。右側の缶には床革を巻いて、グリーンルージュ(青棒)を塗っています。



 少量のオイルを使い、耐水ペーパーで刃を研ぎます。刃を研ぐときは、ホルダー本体がペーパーに当たらないように、刃を長めにすると研ぎやすいです。刃を当てる向き・角度によって、刃に当たる曲面の大きさが変わります。

 漠然と刃をペーパーに当てるのではなくて、どういう形に仕上げるかをイメージして、今どの部分を研いでいるのかを意識しながら研ぐことが大切です。
 
 

 ペーパーで研ぎ終わった刃は、革砥で仕上げます。空き缶に床革を巻き曲面革砥にして使います。革を切る刃の先端付近を特に丁寧に仕上げます。

 カーブブレードを用いての裁断作業で革砥を使う場合、刃先付近を整えるだけであれば、普通の平らな革砥で十分に使うことができます。
 
 
【注意】
 持ちやすいように、本体の角の面取り加工もおすすめですが、素材のガラスエポキシの粉でかゆみが出ることがまれにあります。粉が飛散しないように加工し、加工後は清掃や手洗いなどを十分に行ってください。刃の取り扱いにはご注意ください。予告なく仕様を変更する場合があります。レザークラフト用に安全に留意してお使い下さい。

 

2021/03/19

TY-半円テンプレート

 「TY工具シリーズ」は、私が自分で使いたいと思う道具を考えて、デザインや試作をしたのち、加工してくださるYOSIBUさんがさらにアイデアを加えてくださり完成に至る、オリジナル工具シリーズです。いずれの製品も、数に限りがあります。
 
 (企画デザイン・製作:TUZIE + YOSIBU)
 
  デザインや作図の時に、円弧を描きやすい半円テンプレートです。実用性が高い多段階の半径設定を、使いやすい形とサイズにまとめました。
 
 以前は、市販の半円テンプレートがありましたが、私の知る限りではだいぶ前に市場からは姿を消してしまいました。でも、私にとって半円テンプレートは作業に必須の道具なので、丈夫なガラスエポキシ製の半円テンプレートを作りました。
 
 少ない枚数ですが、クラフト社を通して販売される予定です。
 
 

 半円テンプレートには、分度器機能をプラスする角度メモリも印刷されています。ちょっとした時に手軽に使うことができます。
 
 半円を描くためのテンプレートですが、中心を合わせて半円ずつ描くと、円を描くこともできます。中心に穴が開いても良ければ、中心点にピンを刺して固定すると、より簡単な操作で円を描くこともできます。
 
 ピンは附属しませんので、必要な場合はご自分で用意して下さい。画像のピンは、カルコと言われる道具ですが、ホームセンターなどに行くと、いくつかのデザインの製品が販売されています。昔ながらのカルコとは違う、多機能なカルコもあります。
 
 何故か子供の頃からカルコが好きで、大して使うことも無いのに、作業台近くのコルク板に昔から挿しています 。子供の頃に見た大工さんの墨付け作業にでも影響されたのかもしれません。



 デザインや型紙づくりに使いやすいように、半径10ミリ〜95ミリまで、5ミリ間隔で18段階の半円を描くことができるようになっています。画像は、中心を決めて半円テンプレートの片側9段階の同心円を描いた図です。
 
 テンプレートの各所に開いている穴を利用して円を描くこともできますが、重要な使い方ではないので紹介は省きます。



 デザインや作図の時の、コーナーの丸みの設定に便利に使うことができます。鈍角から鋭角まで、半円テンプレートは多様な角度に対応しやすい形です。
 
 私は、このような型紙のコーナーの製図に愛用しています。他にも、カービングパターンのデザインなどにも使いますが、主にフレームなどの枠となる線を引く時にいます。



 バケツ構造のバッグの、底の型紙の製図に利用した例です。丸み部分の半円や角丸を簡単に描くことができます。この半円テンプレートの大きさに合わせて底の奥行きを決めると、手軽に正確な作図をしやすいと思います。
 


 これは、楕円の製図を示した画像ですが、普通はコンパスを使って作図する簡易な方法です。サイズは限られますが、半円テンプレートでも同様の楕円を描くことができます。
 
 赤い円弧の半径は、青い円弧の半径の2倍になります。楕円の長径は青い円弧の半径の3倍です。

 TY-半円テンプレートで簡単に描くことができる最大サイズは次の通りです。

 青い円弧の半径が45mm。赤い円弧の半径が90mm。長径が135mm。

 サイズや縦横の比率が限られるので、実用性が高いものではありませんが、作図遊びだと思ってお試しください。
 
 
 【注意】 
 素材のガラスエポキシと加工方法の特性により、断面にややざらつきがあります。気になる場合は、#1000程度の紙やすりで整えて下さい。まれに、ガラスエポキシの粉でかゆみが出ることがあります。粉が飛散しないように加工し、加工後は清掃や手洗いなどを十分に行ってください。テンプレートに過度に力を入れて曲げると折れる恐れがあり、危険ですのでご注意下さい。予告なく仕様を変更する場合があります。レザークラフト用に安全に留意してお使い下さい。

 

2021/03/18

久保田城穴門前の発掘ふたたび

 新たに発掘された井戸を拝見してきました。今回の穴門前の発掘場所では合わせて5つの井戸が見つかったそうです。
 
 

 井戸の向こう側の地層の、写真右から1/3くらいの位置に、黒い土と黄色っぽい土の境目が見えますが、黒い部分が井戸を造る時に掘られた穴の大きさになります。大きく穴を掘り、木枠(桶)を造りその周囲を埋め戻すと言う工程で井戸は造られているそうです。

 この井戸がどの程度の深さまで掘られているのかは、この状態ではまだわかりませんが、近くに掘られていた井戸は5メートル以上の深さがあったそうです。木枠(桶)を4.9メートルまで掘り進めて、その下にさらに次の段の木枠(桶)があるのを確認したそうです。軟弱地盤であまり深く掘るのは危険なため、掘るのはその深さまでにとどめたそうです。
 
 この井戸は、掘られた位置から考えると、公共の井戸だと考えられるそうです。公共とは言っても、街の人が気軽に使うと言うことではなくて、城の中に入ることのできる人たちが使うための、公共性のある井戸と言うことだそうです。
 
 井戸の木枠の樹種の鑑定はこれからということでしたが、杉ではないかとのことでした。桶や樽の技術がいつ頃から在ったのかは知りませんが、今で言うところの秋田杉桶樽に通じるものが、地中でも使われていたということかもしれませんね。
 
 前回の投稿で紹介した旭川を埋め立てる工事で使われた木の杭の樹種は、栗とのことでした。 湿気に強く耐久性が高い樹種なので、昔からこういった工事にも使われていたのでしょうね。古くからの知恵ですね。
 
 

 発掘現場で見つかった、器のかけらです。これらは当時のゴミと言うことでした。発掘現場の築城の土木工事が行われた時期よりも、新しい時代の器のかけらだということでした。そのため、今ひとつすっきりしないところがあるようです。焼き物の名称を、何度も伺っているのですが、どうしても覚えられません。聞いたことのある名称ばかりなのですが・・・。
 
 いつも話しを伺うときは、楽しくてたくさんの驚きがあって面白いのですが、残念ながらそれが私の中に知識として蓄積されていってくれません。基本的な名称も覚えられずです。
 

 さてこれは、正保国絵図の中の一つ、「出羽国秋田郡久保田城画図」です。1644年に幕府が全国の大名に対して、国の絵図を作成することを指示して作られたものだそうです。当時の久保田城と城下の絵図になります。
 
 昔の絵図を、今はデジタルデータで全体を見たり部分を見たり自由にできますが、実物は3メートルもあるような大きな絵図だったりするそうです。デジタル化される前は、巨大な絵図を見るのも一仕事だったそうです。部屋の敷物サイズですね。実物大国絵図カーペット欲しいかもです。
 
 

 絵図の中の久保田城のあたりを切り抜いた画像です。現在の千秋公園の周辺図と言うことですね。千秋公園・内堀・外堀・広小路など、現在の地形と同じですね。秋田駅のあたりは堤と書かれているので、沼か池のようなものだったのでしょう。
 
 

 さらに中土橋の通りを中心に切り抜くとこのような感じです。今回発掘されている場所や、当工房のおおよその場所や周辺施設名を書き込んでみました。丸く囲んだ発掘場所の位置には、井戸があることが記されています。
 
 工房の前の土塁などは壊されてしまったので、城跡の実感はありませんが、間違いなく昔で言えば城郭の中に当工房は建っています。こういった絵図を見ると、秋田市は城下町を中心に発達してきた街なのだということがよくわかりますね。
 
 ところで、この絵図の名称は「出羽国秋田郡久保田城画図」です。「秋田藩久保田城画図」ではありません。実は、〇〇藩と言う藩名が広く一般に使われるようになったのは明治になってからのことで、正式な藩名は明治時代になってから決まったようです。

 明治元年に正式な藩名が決まり、明治4年には廃藩置県で藩は県に変わったということらしいので、藩名は公式には4年ほどの存在だったということなのでしょうね。
 
 以下の引用は、wikipediaの「藩」のページから、秋田に関する部分の抜粋です。
 
久保田藩は江戸時代の藩主の官位として「秋田侍従」があり、戊辰戦争の際も郡名由来の「秋田藩」を名乗り、「秋田藩印」とする藩印を明治政府に提出しているが、藩庁所在地を藩名とする原則が徹底されたことにより、「久保田藩」が正式な名称となった。藩としては歴史的に使われた名称である「秋田藩」と呼ばれることを願い、城下町の名称を久保田から秋田に変更した上で、藩名を久保田藩から秋田藩に改名している。 
 
 最初は「久保田藩」と名前が付けられたけれど、後から「秋田藩」に変更したということです。この記事を書いている時点でのwikipediaには、「久保田藩」のページはありますが「秋田藩」のページはありません。でも、当時の秋田の行政機関が公式に政府に願い出て「秋田藩」と言う名称になったわけですから、現在の秋田県や秋田市などの公的な立場から言うと、「秋田藩」の名称を基本にしているようです。でも、逆に「久保田藩」を基本に考えている立場もあると言うことらしいのです。秋田は、二つの藩名を持っていたと言うことですね。

 歴史の知識が乏しいために、自分が住んでいる場所の藩名をどう書くべきなのか一時は迷いました。でも、あるとき市の学芸員さんから話しを伺う機会があって、それから私が文章に藩名を書くときには、「秋田藩」と書くことで落ち着きました。
 
 もしも、城郭の中であるこの場所でカフェをやるとしたら、藩名のうんちくを語るためのきっかけメニューとして、「秋田藩ブレンド」と「久保田藩ブレンド」をつくる、といった妄想をはじめたら、藩名チョコレートやら藩名クッキーやらの怪しい土産物まで、頭の中に浮かんでは消えます。
 
 

2021/03/17

久保田城穴門前の発掘


 久保田城の穴門の前、秋田藩渋江家の下屋敷出入り口あたりの発掘調査が行われています。旧和洋高校校の敷地だった場所ですが、建物のあったところはすでに地層が破壊されていたために、前庭であったごく一部のみの発掘調査です。私の工房のすぐ目の前の位置にあたります。
 
 

 
 井戸は4つ見つかったそうですが、そのうちの一つはもしかすると井戸ではなくて、他の目的に穴かもしれないとのことでした。井戸の位置は、古い絵図に記されていて、おおむねその絵図の位置どおりに見つかったそうです。井戸の木枠はけっこう大きいので、この下にも続いていると思われます。
 
 

 手前に写っている木の杭は、旭川を埋め立て流れを変える工事の一番最初の杭の列です。築城を始めた時の旭川は、この位置を流れていたということです。木の杭の向こう側1メートルあたりが当時の川の際で 、杭を打ち少しずつ埋め立てて川の流れを変えて、現在の外堀の位置まで10〜20メートルほど流れを変えて、渋江家下屋敷の土地を造成したということだと思われます。
 


 この黒い斜めの筋、これが最初に埋め立てた境目の線とのことでした。人力で川の流れを変え始めた最初の一歩が、現在まではっきりと残っていたわけですね。地層って、すごいですね。


 
 県民会館跡地の発掘と同じで、今回の発掘も時間の制約が大きくて工期も残り少ないために、この木の杭はこのあと間もなく抜かれて、次の作業が進められるとのことでした。
 
 
 
  私はこの写真を、まさに当時の川の流れの上に立って撮影しました。湿気った土の上に立ってシャッターを切っただけではあるのですが、気持ちがちょっと高揚したと言うか、何かうれしい気持ちになりました。
 
 現在の旭川の流れになるのは、築城を始めてからおよそ30年後のことで、今回発掘している場所から見るとおよそ190メートルほど西側に新たな旭川が造られたことになります。
 
 私の工房の目の前ではこの3年ほどの間に、旧県民会館・旧和洋高校の解体工事とあきた芸術劇場の建設工事が行われており、現代の土木工事・建設工事における重機の力を間近で見ておりますが、 昔の人は人力で地形を変える工事をやり遂げているわけですから、本当にすごいですね。旭川の流れを変えることに人生を掛けて、一大事業として携わった人たちもいたのかもしれません。
 
  時間のスケールや仕事のスケール、今と昔とどちらが大きいのか小さいのか、よくわかりませんね。


2021/03/16

千秋公園二の丸の発掘

 

 千秋公園二の丸で、2020年に小規模な発掘調査が行われていました。佐竹資料館のすぐ近くの場所です。 秋田藩久保田城の正式な登城門であった黒門から坂を登り、二の丸に入ったあたりになります。



 細長い範囲が発掘されていますが、千秋公園への入り口となる大坂に融雪設備を導入するための工事の事前調査の発掘です。
 
 柱があったであろう穴などがありますが、何らかの塀があった跡ではないかということらしいです。当時の二の丸は、どのような風景だったのでしょうかね。
 
 

  現在はすでに融雪用の設備が埋設されていますので、発掘調査をしたこの部分の城跡はすでに失くなったと思われます。このあと佐竹資料館も建て直すことが決まっておりますので、それに合わせての発掘調査も行われると思われますが、この部分の発掘と合わせて、久保田城二の丸の様子がどのようなものであったのかが、もっと明らかになっていくと良いですね。
 
 

  この写真は、地層の深さを計測しているところですが、この部分でおよそ1メートル盛土をした跡があると伺ったように覚えております。話しを伺ってすぐに文章を書かず、だいぶ時間が経ってしまったので、記憶が少々あやふやです。
 
 

 深さを計測していたのは、上の写真の中央から少し右のあたりです。その位置で1メートルの盛土だとすると、写真中央から左側の土塁のあたりはもっと高く盛土をしたということになります。かなり大掛かりな土木工事ですね。
 
 

 少しカメラも向きを変えて撮影すると、黒門に下っていく坂があります。坂の下に行くほど、盛土をした高さはますます増えるのことになるのだと思われます。
 
 1万年単位の昔の話だと思うのですが、昔の旭川はこちらの千秋公園の東側を流れていたと伺ったことがあります。東側の三の丸の地形にも、それが現れているそうです。自然の地形を利用しながら大規模な土木工事が行われて造られた久保田城を、いま千秋公園という形で利用している不思議。
 
 散歩道にも歴史ありです。

2021/03/15

専門分野外の活動

 

 2017年から足掛け4年ほど、秋田銀線細工を存続させるための活動を行いました。その最大の成果が、秋田銀線細工の拠点工房となる矢留彫金工房の設立でした。紆余曲折ありましたが、2019年に開設することができました。
 
 私は声掛け役と言いますか、工房設立までの大雑把な枠組みの構想を立てて、関係者と協力しながらまとめていく立場で活動しました。計画の立案やプレゼン資料の作成、関係者との打ち合わせなどの多くの部分を行いましたが、表には出ないお手伝いの黒子としての活動でした。
 
 

  そもそもは、衰退の著しい秋田銀線細工を秋田市の工芸として立て直すというテーマを秋田商工会議所が掲げて、秋田銀線細工の展示会を企画していることを、2017年の初春に知ったことから全てが始まりました。
 
 当初の私の認識では、秋田銀線細工はすでに過去のものになりつつあり、このまま衰退して途絶えていくだろうと思っていました。それまで衰退を嘆く声は何度か耳にしておりましたが、作られているものも目新しいものが無く、再興を図れる人材がすでに見当たらない状態になっていたように見えていたので、もう手遅れの状態だと思っていました。秋田銀線細工の展示会についても、いまさらどうしてというのが本音でした。
 
 実際に、秋田市内の職業的な作り手の人数は3〜4人 しかおらず、いつ途絶えてもおかしくない状態になっていたと思います。
 
 

 でも、秋田市伝統の工芸として続いてきたものなので、どのような工芸なのかを、あらためて自分なりに調べてみました。インターネットで世界中の作品を手軽に見ることができますし、調べごともある程度のところまではネット上でも行うことができます。
 
 いろいろと調べる中で思ったことは、これは面白くて可能性が無限に広がる技術なのだなということでした。私にとっては意外な発見でした。完全にこの技法を見る目が変わりました。そして、地元の工芸としてせっかく時間もお金も掛けて作り上げてきたこの技術を失うことは、地域にとってあまりにも損失が大きくて、もったいないと思うようになりました。
 
 まだまだ試されてもいない可能性がたくさんあって、何をやっても新しいと言えるような、未開拓の部分が広大に残されているように思えましたので、この技術をいい形で何とかして残したいと考えるようになりました。少し調べて検討しただけで、あっけなく私は心変わりしたわけです。それまでが無知すぎたのですね。知っているようで、実は何もわかっていなかったのです。
 
 

 秋田銀線細工を残したいと思ってから最初に決めたことは、商工会議所の秋田銀線細工の企画展に出展すると言うことでした。誰にも頼まれていない部外者でしたし、その時点で協力してくれる銀線細工の作り手がいたわけではなかったので、本当はやってはいけない無謀なことでした。

 展示会に至るまでは実際にかなり苦戦しまして、順調にことが進んだわけではありませんでしたが、矢留フィリグリーという制作チームを構成して、多くの作り手の皆様にボランティアでの参加をお願いして、何とか出展することができました。
 
 異素材との組み合わせも重点テーマで、従来の秋田銀線細工とは違う何かを感じる物を、実際に見える形にすることが重要でした。 協力していただいた作り手の皆様には、完全にボランティアで参加をお願いしていましたし、時間の余裕もありませんでしたので、協力して一つの物を作る相手と一度も会わず、一度も話しをすることもないままに形にするというのが、標準的な作業でした。間に私が入って、それぞれの作り手と個別に最低限の打ち合わせをして、あとは作り手におまかせすると言う進め方でした。試作をすることもできませんでしたので、ぶっつけ本番でいわば試作した最初の物を展示しました。
 
 このようにざっくりとした準備しかできない状態でしたが、参加してくださった作り手の皆様の技と感性の高さのおかげで、予定していたもので形にならないものはありませんでした。
 
 来場者からは多くの高い評価もいただくことができました。この出展が、秋田銀線細工を残していくための活動の次の段階に繋がりました。専門外の素人がやり始めたことに、協力していただいた作り手の皆様に心から感謝いたします。
 
 

 展示会への出展が終わった時点で、新たな工房の設立と、工房を構成してくれるメンバーの見通しを立てていましたので、それをどうやって現実の形にするのかが次の問題でした。
 
  秋田銀線細工の復活は、もともとは秋田商工会議所の企画でしたので、展示会終了後しばらくしてから、少しずつ商工会議所と相談する機会もいただいて、工房設立を目指すという大枠は、数人の関係者で徐々に共有できるようになりました。その後、商工会議所の担当の方々とは、工房設立まで協力しあって活動することになりました。もちろん、作り手たちとはまっさきに、工房設立を目指すことを確認していました。
 
 
 
 本当は、作り手に声を掛けて大枠の構想を考えるところまでを自分の役目と考えていました。秋田銀線細工の現状の整理をして、これからを担う事のできる人材や、今後の製品づくりのイメージなどの、ソフト的な部分を見える形にまとめてるまでが私の役割だと思っていました。
 
 あとは商工会議所や秋田市が、公的なフォローも行いながら地域の伝統的な工芸の存続のために動いて、秋田銀線細工を残していくために活動する作り手たちを支援してくれることを期待していました。
 
 でも、実際には公的な動きがすぐに望めるわけでもなく、秋田銀線細工を存続させるための拠点や工房を立ち上げるための具体的な公的な動きが実現することはありませんでした。それでも、商工会議所が秋田銀線細工を再興させる方針を堅持してくださっていたので、そこに可能性がありました。
 
 私自身の活動もボランティアで、何の対価もなく補助金も何も無い無償のものでしたので、継続して活動することには非常に厳しいものがあったのですが、 作り手の今後の人生を左右するようなことを自分で言い出した経緯がありましたし、未開拓の可能性が大きく残されている秋田銀線細工をより良い形で存続させることは、とても重要なことに思えたので、覚悟を決めて活動を続けました。
 
 伝統工芸・産業・教育・文化・歴史・観光 など、多くの分野で秋田銀線細工は地域にとって重要で、失ってはならないものでしたので、何とかしたかったのですね。
 
 

  その頃ちょうど旧県立美術館の再利用が具体的に検討されていることを知り、秋田藩の初代銀山奉行で秋田の鉱山の基礎を築いた梅津家の屋敷跡である旧県立美術館に、秋田銀線細工の工房ができれば、ルーツ・ストーリーともに美しくまとまると一人勝手に妄想していました。
 
 新たに計画されている施設は、文化・歴史・芸術などがキーワードの施設になるようでしたので、秋田市の歴史の成果そのものの一つと言ってもいい、城下町文化の流れを汲む秋田銀線細工は、この場所にふさわしいように思えました。
 
 民家が隣接していることもなく、音の出る作業もできる理想の環境で、販売・観光などの面でも理想的でした。そういった場所は、なかなかあるものではありません。
 
 実際のところは、旧県立美術館の再利用については内容や管理者なども含めて、その時期にはすでにほとんど決まっていたようです。私の妄想がお呼びで無いのは当然のことでした。無理とはわかりながらも可能性を確かめたくて、施設の再利用についてのワークショップに2度参加してみたこともあります。ワークショップの内容の意味はよくわからなかったのですが、私の知らない別世界を垣間見たような、ある意味貴重な経験だったと思います。
 
 旧県立美術館は秋田市文化創造館という施設になり、アートで様々な課題に取り組み、新たな価値を創造していく活動をする施設になるようです。やや漠然としたところもあるので、実際の内容は稼働し始めてから徐々に見えてくるという感じのようですが、良い施設になってくれるといいですね。
 
 

 その後は、資料作りや人への説明など、私にとっては苦手で時間がかかり消耗する作業も多くありました。工房の具体的な場所もなかなか決まりませんでしたが、商工会議所やビルを所有する経営者の皆様のご厚意と協力のおかげで、現在の場所に工房を開設できることが決まり、どうにかこうにか工房設立へ具体的に進んでいくことができました。
 
 工房に参加するメンバーには、進路や将来を決めるタイミングというものもありますので、それにぎりぎり何とか間に合わせられると言う進行状況でした。どの段階でも失敗は許されない状態で、工房開設後のことも考えて仕事も最低限は用意しておく必要もあり、なかなかたいへんでした。
 
 工房内の設備や工事の手配をしたり、夜中に作業に行ったりで、苦戦することがたくさんあったのですが、まずは何とか新たな工房を立ち上げることができて、今後につながる場をつくることができたのは大きかったと思います。秋田銀線細工を今後に繋いでいくための土台ができたので、あとは工房のメンバーの活動を軸に、商工会議所や行政も協力して動いてくだされば、道は拓けていくと思われます。
 
 

 工房の運営については、今まではなかった変則的な形をとっている部分があります。資金が十分とは言えない状態で、作り手が自主的に立ち上げた工房ですので、運営方法についても選択肢は少なくて、できる中で最も問題の少ない方法を取りました。
 
 詳細は省きますが、その手法で工房の形を構成することができたのは、奇跡に近いことだと思います。メンバーの人柄が良くて、秋田銀線細工を愛し後世に残していくという、共通の目標と信念があるからこそ成立したものだと思っています。秋田銀線細工の存続を図ることができるかどうかのぎりぎりのタイミングで、工房に必要な人材が存在したということ自体が、奇跡的なことでした。
 
 現在は、私は矢留彫金工房とは距離を置き、矢留彫金工房の活動には関わっていませんが、今後の秋田銀線細工の可能性は大きいと確信しています。もともと秋田銀線細工には潜在的な高い営業力・訴求力・様々な付加価値がありますので、矢留彫金工房という窓口・受け皿があれば、興味を持つ人は多いと思います。これからきっと、新たな秋田銀線細工の世界が広く開拓されていくことになると思います。
 
 秋田銀線細工再興のために力強く事業に取り組んでいる商工会議所をはじめ、市役所・県庁など地域の伝統や工芸に関わる皆様が引き続きご支援くださり、 次の段階として後継者育成のための方法・システムと言ったものを構築してくださることを願っています。いずれは、矢留彫金工房の第二工房が必要になる時期がきてくれることを期待しています。
 
 

 工房の設立以外のことで私が重点的に取り組んだことがあります。それは、秋田銀線細工の歴史記述の修正です。1980年頃からなのですが、日本史としても間違いのある、たいへん不正確な歴史が語られるようになっていました。それは今後の秋田銀線細工にとって、決して良いものではありませんでしたので、早急な修正が必要でした。工房の作り手たちも同様の考えでした。
 
 古い資料などを探り、以前から調査検討を行っていた専門分野の人にも相談しながら、矢留彫金工房としての秋田銀線細工の歴史観をまとめました。矢留彫金工房のサイトでも公開しておりますし、県の工芸のページの歴史記述にも同様の記述が採用されています。市の広報などでも、以前の間違った歴史記述は使われなくなったと思います。まとめた歴史記述に、大き間違いは無いと思っていますが、今後専門分野の人や行政の担当者などが、より良い物をまとめてくださるかもしれません。
 
 また、秋田銀線細工が秋田市の財産であることを明確にして守っていくことについて、 少しあいまいになっている面があるように感じましたので、秋田銀線細工は秋田市の城下町文化の流れを汲むものであり、秋田市がお金も時間も掛けて築いてきた地域の財産だということを、再度明確にすることも活動の中で心掛けました。
 
 工房を造るだけではなくて、工芸の歴史や背景など土地との関係性も明確にしておくことは、伝統的な工芸としては必須の事だと思いますが、秋田銀線細工はそういった面が少々おろそかにされて不明瞭なところがありましたので、少しでも整理できるようにしました。
 
 そして私の活動の最後は、新型コロナウイルス対応のために少し延長されましたが、2020年半ば頃で秋田銀線細工の活動はほぼ終わりました。ただ、燃え尽き症候群と言えばいいのか、消耗感が残り気持ちや行動を元に戻すのに時間がかかりました。
 
 
 

 
 これは矢留彫金工房のマークですが、「矢」の象形文字と「留」の形を組み合わせたもので、矢留の文字通り全体としては矢を留めている形です。「留」は木工や建築などをはじめとしたものづくりの用語として、それぞれ45度の部材を直角に組む意味で使われます。
 
 シンプルで和を感じる形として描いてみたものですが、いまのところ工房のマークとして使っていただいています。工房の発展とともに永く使われるとうれしいですね。
 
 これから着実に発展して新たな可能性が広がって行くのを見ることができれば、そのときには秋田銀線細工の再興が成し遂げられると思います。
 
 まだ足がかりの土台ができただけで、本番はこれからですが、今後を大いに期待し楽しみにしています。
 
 
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 この記事は、秋田銀線細工の活動を終えて時間が経って落ち着いた所で、自分の活動をふりかえり、忘れっぽい自分のために簡単にまとめておこうと思って書いたものです。わかりやすいところに書いて残しておかないと、何を考えて何をやったのか、本当に忘れてしまうのです。
 
 工房のメンバーや技術支援をお願いしている技術者の方や、初期の展示会や工房設立に協力してくださった皆様も含めて、関係者の方々のお一人お一人のお名前や詳細には言及しない方針で書きました。紹介が無いことを、悪しからずお許しください。