2021/02/27

久保田城渋江家屋敷跡発掘:9(再投稿:2019年05月25日)

 

 久保田城の三の丸、城主の仮御殿 兼 家老の渋江家の屋敷跡であった、県民会館跡地の城跡の発掘について記事をいくつか書きましたが、発掘作業で見つかったもののほとんどは、この場所からは無くなります。この土地自体が無くなるというのが正しい言い方になると思います。

 この城跡は土地ごと削りとられて現実の世界からは消失します。コンサートホールと劇場を備えた大型の文化施設を造るためです。

 久保田城の中でも重要であった場所ですし、今回の発掘では縄文時代からのこの地での人の生活の痕跡や平安時代の住居跡なども見つかっております。久保田城の石製の遺構などが多数出てきたことを考慮しても、市民共有の歴史的な財産として残らないのは、とても残念です。今回の発掘作業の結果も、おそらくはほとんど知られていないと思います。

 このクラスの城跡が、今回のような「破壊」の課程で発掘調査されることは稀なことなのかもしれません。土塁の断面や敷地の断面を見る機会さえ、本来はあり得ないことだったようで、貴重な機会だということで県外からの見学者もいらして、城跡を破壊してはダメだと力説されるのも聞きました。
 
 秋田駅から徒歩数分の場所に、大規模な城跡があって緑の多い千秋公園が残されているのは、貴重なことだと思われます。本来ならば、渋江家屋敷跡も緑の多い歴史文化の公園広場にしても良さそうなものだったと思います。大きな建物を造らずに歴史的な地形と遺構を保存しながら整備したほうが 、市民の憩う場所としても、観光資源としても、後世まで役に立ってくれたのではないかと、そんな気持ちになります。

 発掘調査を見ていると、県民会館が建てられていた場所の地下は、すでにもともとの地面が失くなっており、発掘調査はできませんでした。その周囲からは貴重な遺構なども出ていますが、明治・大正・昭和の工事で、失われていた物も少なくなかったようです。そして今回の平成・令和の工事では、ごく一部を残して古い地層から土地ごと消失させることになります。その事実が歴史に残りますが、それを近くで見ている身としては、本当に残念に思います。

 発掘の記録をデジタルデータとして残すとお役所は言いますが、後世のデジタルデータと、現実の存在として残していくことの違いは大きなものだと思われます。

 この場所は、「芸術文化ゾーン」であると秋田市が定義している区域の中心地です。芸術・文化・歴史・観光・まちづくりの核だと秋田市自らが決めている場所と言えます。ですから、ここに秋田市の文化のレベルが現れるのかもしれません。

 どんなに立派な施設を建てるとしても、自らの土地のルーツや地域の歴史的な財産を軽んじるような姿勢は、間近で見ていて不思議に思いますし、何か恥ずかしい行為をしているのではないかと言う気持ちにもなります。

 「芸術文化ゾーン」は、似たような機能を持つ文化施設が隣接していくつか立ち並ぶような、「文化施設建設ゾーン」になりつつあるように感じているのですが、 利用する市民・県民の人口の激減と急速な高齢化の中で、相変わらずの箱物優先主義は、今後どのような意味を持ち、どのように機能していくのでしょうか。

 発掘現場の専門家と話をした際に、1万年前を語るときに「直近の」という言葉を付けていたのが、たいへん印象的でした。「直近の1万年」と言う感覚は、自分の中には全くありませんでした。
 
 100年後に、今残っている歴史的な物を残すことができないというのは、歴史的な時間の流れで考えると、些細なことなのかもしれません。でも、過去からの遺産をせめて次の100年残すと言うくらいの気持ちは、持っていたいとも思います。
 


2021/02/26

久保田城渋江家屋敷跡発掘:8(再投稿:2019年06月09日)

 

 上の画像は、排水用の木製の水路です。たいへん立派なもので、使用されている木材もかなりの太さと厚さがあります。中土橋の通りに近い位置、県民会館の出入り口であった所に近い場所で、まとまった長さで発掘されています。


 木製の排水路に使用されている釘状の金具です。かなりの太さがあります。土の中でちょうどいい保存環境だったのでしょうね。木材も鉄材もきれいに残っていました。



 排水路の底面ですが、木を継いだところは段欠きにしてつないでいたようです。



 画像の黄色と黒の土の層は、版築(はんちく)という工法で土が突き固められた跡です。板で枠を造り、その中に土を入れて突き固めますが、違う土を交互に積み重ねて固く突き固める工法だそうです。当時は全て人力ですからすごいですね。この土地の盛土をする際に、周囲を版築で突き固めて高さを出してから、中を埋めていくような工法が取られていたようです。

 一度にどの程度の規模で版築で固めていったかがわかると、そこに必要な人数や工期などの見当がつくそうです。すごいですね。



 右側の柱の穴は、中土橋通りの際ですが、この位置の柱穴が何のために使われたのかは、容易には想像が付かないそうです。立派な門が、これよりも内側に築かれていたので、その外側の穴は何に使われていたのか、建造物があったのか何かの工法の跡なのか、正解を知りたいですね。



 埋没沢と言われる地形の場所だそうです。もともとこの場所に湧き水があり沢となっていたような場所だとのことでした。築城の時なのでしょうか、必要の無いものとして埋められたのでしょうね。今も水が湧いてきており、あまり水が出ると困るので、広い範囲を少しずつ掘っているそうです。一箇所を深く掘ると、せっかく掘っても水没してしまうのでしょうね。



 これは平安時代の屋敷跡の柱穴などのようです。かなり大規模なもので、同じ敷地から出ている平安時代の竪穴式住居跡とはかなり様子が異なるようですね。

 国司などの高級役人級の人物の屋敷じゃないと、この規模は説明が付かないらしいのですが、当時は秋田城が政治の中心地ですから、離れたこの場所にこの規模の屋敷跡というのは謎含みの物のようです。誰がどのように使っていたのか想像がふくらみそうです。

 ゆっくり時間をかけて発掘すれば、様々な発見があるのではないかと思うのですが、現場はとにかく工期に追われている様子で、重機で荒く掘る作業も多いのが実状のようです。この地の歴史がより深く明らかになるチャンスなのに、少々残念に思います。




 発掘は100人規模の人員で続けられており、解体工事の工期ギリギリまで作業が続けられる模様です。事業主体の秋田市と秋田県が、もっと地元の歴史や発掘という行為に理解があれば、時間をかけて調査できたはずなのですが、全ては工事ありきなのだと思われます。発掘現場の人たちは調査期間が短くてたいへんだと思うのですが、残り少ない調査期間にも、また新たな発見があることを願っております。



 一部の石製の遺構などは、すでに解体されています。現在発掘中の木製の排水設備も、今後解体されて運びだされるはずです。こういったものは、埋蔵文化財センターで保管される事になることが多いようなのですが、もとの形に復元しようと思えば、それは可能なことなのだそうです。木製の遺構なども、防腐処理をすれば、おそらく再構築が可能なのではないかと思われます。

2021/02/25

久保田城渋江家屋敷跡発掘:7(再投稿:2019年05月25日)

 

 県民会館の入り口のあった場所の近く、この場所が久保田城であった頃の中土橋門に近い位置で見つかった石製の遺構です。この石製の遺構は、昔の絵図と場所や形状などが一致するそうです。

 私が現場を見せていただいていたこの時に、この写真の少し奥のほうで、 「予想通りのところから出てきました」と言う声が聞こえてきました。


 写真ではちょっとわかりにくいですが、「予想通り」に出てきたのは、柱の穴とその底に在る根石です。すでに見つかっていた柱の穴の位置から予想を立てて掘る作業をされていたようです。柱がこの位置だと、門の向きが予想と異なるかもしれないという話も聞こえてきましたが、まだこの後も柱の跡は出てくるのかもしれないということでした。予想はするけど予断はしない、そんな作業なのかなと思いながら、現場を見させていただいておりました。



 穴がたくさん開いていますが、この地層は今から数万年以上前の、まだ日本に人が住む以前の地層です。このような古い地層を現場では「地山」と呼んでいるようでした。ローム層と言っても良いとのことでした。

 人が日本に住むようになる以前の地層に、人が生活した痕跡が在るのは、その上の地層から掘り下げられた穴だからです。この露出している地層の上には、縄文から平安までの地層とその上の江戸の盛土の地層があったわけです。やや後方のポツンと小高いところが、江戸時代に整地された高さです。

 今回は解体作業と同時に行われている発掘作業のため、時間が少なくて相当に掘り急いで作業をしている印象です。



 中央やや上の大きな穴は、ゴミ捨て用の穴です。こういった穴がいくつもあり、このゴミの穴の中に入っていた土は、手前の土嚢袋の中に収められています。



 江戸時代にゴミとして捨てられた物である土嚢袋の中の土は、全て水洗いされます。中に入っているものを探すのですね。



 ドロドロの状態からだいぶきれいになっていますが、大量の木片という感じで、この中から意味のあるものを探すのは大変なことだと思います。



 この日の地道な水洗い作業の中で見つけられた物の一つが、人形の頭部でした。なかなか味わいのある顔つきです。完成形の人形としてはどのような姿をしていたのでしょうね。



 こちらは、文字の書かれた木簡です。何が書かれているのでしょうね。こういう物が見つかると、うれしいでしょうね。


2021/02/24

久保田城渋江家屋敷跡発掘:6(再投稿:2019年05月25日)

 

 私の店のすぐ前の、久保田城跡の発掘調査から現場の写真を紹介します。

 1枚目は、縄文時代に狩猟に使われた落とし穴です。落とし穴と最初に説明されたときには、さっぱり意味がわからず、縄文時代の狩猟用と聞いてビックリしました。長さは3メートルほど、深さは1メートル以上、幅は0.3メートルといったところでしょうか。穴に落ちると、身動きできなくなる細さです。

 縄文時代というのも長い期間ありますが、この落とし穴の後については、3000年から4000年くらい前のものではないかということでした。久保田城になるよりもずっと古く、遥かな昔から、私たちの祖先はここで暮らしていたのですね。



 これは、平安時代の竪穴式住居の跡です。西暦900年頃のものと考えていいそうです。やはり江戸時代よりもかなり古い、平安時代の祖先の暮らしの痕跡ですね。この付近の住人も、秋田城に年貢などを納めていたのではないかと想像されるそうです。

 平安時代の竪穴式住居跡は4基あるそうです。土を採取した跡と、焼き物を焼いた跡があり、ここで焼き物が焼かれていた可能性が高いそうです。どんな焼き物を焼いていたのでしょうかね。



 縄文や平安の生活の痕跡、柱の穴などがまとまってあるところです。県民会館跡地の南西の角辺りです。実は、土を掘ると敷地には広くこのような痕跡があります。



敷地の南西の角を上から撮影した画像です。



 これは井戸です。井戸は何ヵ所もその痕跡があります。水が枯れると掘り直したのかもしれませんし、屋敷を建て替えた時に新たに掘ったりしたのかもしれませんね。



 こちらはゴミ捨て用の穴です。敷地のなかにはこのような穴が何ヵ所もあります。臭くなったり量が多くなると埋めて新たな穴を使い始めると言うことで、何ヵ所もあるそうです。敷地の西側の下屋敷側に多くあるようでした。屋敷の裏手と言うことかもしれません。



 ゴミ捨て用の穴は、県民会館の入り口にやや近い辺りにも掘られていました。ここは、屋敷の裏手ではないはずなのに、少々不思議な感じもするような位置のようでした。

 何やら白いものが山になっているのが写っていますが、土嚢袋に納められた、ゴミ捨ての穴の中の堆積物、つまり昔のゴミがこの中に入っています。これを水洗いしながら、中に入っている遺物を探すのだそうです。まだ未調査の袋も大量にあって、これは気が遠くなりそうな作業ですね。細かいものだと、魚のウロコなども入っているそうです。海の魚と川の魚、どちらが多いのでしょうかね。



 これは、城主の仮御殿 兼 家老の屋敷跡であるこの小高い土地の、江戸時代の土木工事の状態がわかる土地の断面です。このクラスの城跡を、このような形で掘るなどと言うことは、基本的にはあり得ないことでしょうから、とても貴重なものだと思われます。

 下の黒い地層は古い時代のもので、その上に久保田城の築城に当たっての、土木工事が施されています。まずは拳よりも大きな石を積み、その上に徐々に小さな石を積み、最後は土を盛っている状態のようです。水捌けが良いように地盤改良が行われているそうです。

 この土地は、山の稜線だった場所なので、盛土の量も場所により異なるのですが、多いところだと5メートルも盛土されているそうです。ものすごい量の土を使って工事を行ったのですね。地形を変えて、その土を移動させながら、合理的に工事を進めたのでしょうかね。

 私たちの祖先が行った工事ですから、何故これを破壊せねばならないのか、とても残念に思います。石垣の無い久保田城で行われていた高度な土木工事は、地元の人間が誇っていい歴史的な地域の財産だと思うのですが。主要な城が石垣のない土塁の城であるのは、東北でも秋田だけだと思いますし、壊さずに大事にして、街の財産として有効に使えば良さそうなものなのですが・・。



 水捌け良く工事が行われて、そこからの水の行き先は、小高いこの土地の裾野にあたる中土橋の通りの脇です。中土橋通りは、沼地だったところの土を入れ換えて突き固めて造られた土地です。そこに水が滲み出してグショグショになっては困りますよね。ちゃんとそうならないように、小高い土地の裾野の辺りは粘土質で固めてあり、そこに溝を掘って排水されるように造られているのだそうですよ。ちょうどその溝のあったあたりの画像です。おそらく、現在の広小路の堀のほうに排水されていたのではないかと言うことでした。

 緻密に考えられた土木工事が行われていて、非常に高度な土木工事を、当時の人たちが人力で行ったことに、感動を覚えます。


2021/02/23

久保田城渋江家屋敷跡発掘:5(再投稿:2019年05年25日)

 

 私の店の前の県民会館跡地で行われている。埋蔵文化財の発掘調査の出土品を何点か紹介します。

 最初の写真は漆塗りのお椀です。これはきれいに図柄も形も残っているように見えますが、塗膜だけ残っているようなものもありました。出土した木製品は、防腐処理をしない限りは、この画像のように水につけた状態で保存するそうです。こうしておくと、水が腐らない限りは木製品も大丈夫だとのことでした。これは現場での一時的なものではなくて、埋蔵文化財センターで保管する場合も同様にしていて、年に何度か水を変える作業が行われるそうです。たいへんな手間ですね。



 左の袋に入っているのがシャモジ。右の袋に入っているのが、羽子板です。シャモジは大きめです。家老の屋敷ですから、相当数の使用人もいたと考えられるそうです。シャモジも大きめが良かったのでしょうかね。



 墨をする硯です。裏側に太秦と彫られています。京都産でしょうか。



 こちらも硯です。裏に年号が刻まれていて、1750~1760年頃と教えていただいたと思うのですが、記憶が定かではありません。硯を入手した年を彫ったのかもしれませんね。こういった年号が明らかな出土品が出ると、発掘現場の年代の確定などに大いに役立つそうです。



 年号の彫り込まれていた硯の表側です。使い込まれていますね。



 これはクシです。とても細かな細工です。他にはホウキや下駄などの生活用品もありましたが、はっきりわかるような写真を撮ることはできませんでした。



 人形の手です。仏像の手なのか、あるいは子供のための人形の手なのか、様々な可能性がありますが、それを特定するのは難しいそうです。手のひらの内側の穴に、なにかを差し込んで持たせるようなことができそうな形をしていました。最近仕事で身近に見ていた雛人形の手に、ちょっと似ていました。




 2枚続けて焼き物の破片です。模様の名前や焼き物の名称も教えてもらったのですが、元々の知識を持ち合わせていないために、記憶できませんでした。ものを知らないと言うのは、こういうときにそのマイナス面が現れますね。ちゃんとした知識があれば、もっと色々なことが感じ取れたはずですが、古い時代の物なのにモダンな感じがするなと言う程度の感想しか持てませんでした。でも、断面の形状などは面白いなと思って見ていました。焼き物は、ずいぶん古い時代から、技法的には完成されたものなのですね。



 グロテスクに思う方もいらっしゃると思いますので、載せるかどうか少し迷いましたが、犬の頭骨です。中心できれいに割られている状態なので、なにか儀式的なことに使われたのかも知れないとのことでした。虫歯があるので飼い犬で間違いないと考えられるそうです。

 頭蓋骨というと、発掘現場では脳を取り出したと思われる動物の骨が数多く出土することもあるそうです。一般にはそれほど多くの脳を食料としていたとは考えられないそうで、おそらく革の脳漿鞣しに利用された跡ではないかと言うことでした。日本の気候や革の性質のために、革製の出土品は、日本ではほぼ見つかることが無いそうですが、皮を鞣していた痕跡と考えられる物は出土していると言うことですね。県民会館跡地の発掘現場とは直接の関係はありませんが、皮革の歴史は人類の歴史と共に、ですね。

2021/02/22

久保田城渋江家屋敷跡発掘:4(再投稿:2019年05月25日)

 

 2018年-2019年の冬にかけて休止されていた発掘調査が、2019年の春に再開されて、残り少ない短い発掘調査機関の中でも、様々なものが見つかっています。

 最初の1枚は、門柱の礎石や排水用の暗渠が一体となっているような石の遺構です。相当立派な門が造られていたと考えられるようですよ。傾斜しているところに造らてており、石の組み方が複雑に見えますね。



 石製のU字溝型の排水路です。側面と底面の石を組み合わせて作られた水路も有りましたが、これは石をくりぬいてU字型に加工したものです。水の流れが良くなるように内側はきれいに削られているそうですが、外側は土に埋まり見えなくなるので手間を掛けすぎない造りになっているそうです。素人の目ですが、私の店のすぐ近くで見つかったものとは、石の材質や作りが異なっているもののように見えます。



 左下の四角の石が門柱の礎石だったと思われる石です。対になる石も発掘されており、礎石の数や配置から考えると、本丸の表門を一回り小さくしたような門が在ったことが想像されるそうです。本丸よりは小振りだけれど、城主の仮御殿としての格式が整えられた立派な門が作られていたのでしょうね。小振りと書きましたが、幅は約8メートルあり、高さも本丸の表門に準じる高さがあった可能性があるそうなので、相当に大きな門ですね。



 門柱の礎石の部分と一体になったような暗渠です。石製の蓋も残っていました。傾斜地に合わせて暗渠も斜めに設置されていて、その先の枡で他の方向からの暗渠の排水と合流するようになっています。でも、そこから先の暗渠はすでに無くなってい居るとのことでした。傾斜地に建てられた門の真下や周囲に暗渠が設置されて、門を含めた通路が水でグショグショにならないように、考えられた造りなのでしょうか。

 この石製の遺構は、2019年5月18日の一般向けの見学会の後、すぐに解体作業が始められました。 

 


 上からの角度で撮影した発掘現場です。画像の中央からやや上のあたりが、門の礎石の見つかった場所です。二の丸へと続く坂に近い側にありますが、広い敷地の中での門の位置や、二の丸・本丸との位置関係などに、当時の城の縄張りの考え方などが反映されているのではないかなと、想像がふくらみます。



 こちらは、やはり相当な太い柱が立っていた想像される柱穴です。穴のそばにあるのは、穴の底に在った根石です。穴の直径が1メートルくらいあるとのことで、柱は相当に太いものが使われていたのではないかと言うことでした。城主が仮御殿として使うのは、本丸が焼けたなどの緊急の時だけで、普段は家老の屋敷だった訳ですから、相応の使用人もおり、その使用人たちの住まいを兼ねたような門が在ったかもしれないのだそうです。馬なども飼っていたでしょうから、その出入りなどもあったのでしょうね。



 太い柱穴が在ったのはこの方向。県民会館の入り口にやや近い方です。中土橋門に近い側、外敵が侵入して来る側には、実用的で頑丈な門があって、本丸に近い側には城主のためでもある立派な門があったのかもしれませんね。素人の妄想ですが、当時の人が行き交う姿なども想像しながら、この場所の歴史を思います。


2021/02/21

久保田城渋江家屋敷跡発掘:3(再投稿:2019年05月25日)

 

 発掘調査ではいくつもの井戸の跡が見つかっていますが、見つかった井戸のうち、最も造りが良く水質が良かったと考えられる井戸の写真です。発掘が進んだ状態の写真ですので、発掘当初はもう少し違った様子だったそうです。渋江家の当主や、本丸焼失の折りに仮御殿として住んだ城主のためのものだったかもしれない井戸と想像されるそうです。



これも井戸の跡とのことでした。


 こちらも井戸。最初に紹介した造りの良い井戸と比べると、2枚めと3枚めの写真の井戸は造りが異なっていて、水の状態が良くなかったかもしれないとのことです。



 やはり私の店から近い位置にある、敷地の西側の柱の立っていた穴の跡などです。左端には竪穴式住居と同じ造りの小ぶりな施設跡も見受けられます。



 これが、竪穴式住居と同じ造りの構造物があった跡ですが、食糧の倉庫などに使われていたかもしれないものだそうです。

 多数ある柱の穴については、建築物としての柱同士の関係性が見つからず、ここにどのような形の建築物があったのかはわからないとのことでした。城主仮御殿 兼 渋江家屋敷跡については、図面が残っておらず、どのような建物が建っていたのかが不明のままなのです。およそ4000坪のこの土地に、1000坪の屋敷が建てられていたということは記録にあるそうです。

 県民会館の建物の真下は地下も工事が行われていたので、昔の地層が失われていて発掘調査ができない状態です。屋敷の詳細について知るために大事な部分が、すでに失われているようです。



 西側の土塁のちょうど真ん中あたりです。土塁の断面が露出していますが、ここから右側は削られて無くなります。広小路から見える側だけは、土塁を残し城跡を大事にしましたの体にするようです。大事にした振りですね。



 渋江家屋敷と城主仮御殿を兼ねていたこの小高い土地を掘り下げ、下から黒い土が見えているところです。上の明るい色の土は江戸時代の地層で、下の黒い土は平安時代以前の地層とのことでした。江戸時代と平安時代の間が無い? なんとも不思議ですよね。

 実は、久保田城の築城の工事の時に、平安時代の地層の上にあった地層は、一度削り取られているのだそうです。その上で盛土したのですね。

 隣接する梅津家の屋敷や中土橋の通りは、沼地であったところを1.8メートル以上盛土して造成した土地なのだそうですが、まずは近場にあった土を移すところから工事を進めたのかもしれませんね。築城の大土木工事は、大規模な土の移動作業だったのかもしれませんね。

 素人の妄想ですが、当時の人達が大規模な土木工事を行って、山や川の姿を造り変えて城を作った様子を想像すると、本当にすごいなと思います。