2021/02/22

久保田城渋江家屋敷跡発掘:4(再投稿:2019年05月25日)

 

 2018年-2019年の冬にかけて休止されていた発掘調査が、2019年の春に再開されて、残り少ない短い発掘調査機関の中でも、様々なものが見つかっています。

 最初の1枚は、門柱の礎石や排水用の暗渠が一体となっているような石の遺構です。相当立派な門が造られていたと考えられるようですよ。傾斜しているところに造らてており、石の組み方が複雑に見えますね。



 石製のU字溝型の排水路です。側面と底面の石を組み合わせて作られた水路も有りましたが、これは石をくりぬいてU字型に加工したものです。水の流れが良くなるように内側はきれいに削られているそうですが、外側は土に埋まり見えなくなるので手間を掛けすぎない造りになっているそうです。素人の目ですが、私の店のすぐ近くで見つかったものとは、石の材質や作りが異なっているもののように見えます。



 左下の四角の石が門柱の礎石だったと思われる石です。対になる石も発掘されており、礎石の数や配置から考えると、本丸の表門を一回り小さくしたような門が在ったことが想像されるそうです。本丸よりは小振りだけれど、城主の仮御殿としての格式が整えられた立派な門が作られていたのでしょうね。小振りと書きましたが、幅は約8メートルあり、高さも本丸の表門に準じる高さがあった可能性があるそうなので、相当に大きな門ですね。



 門柱の礎石の部分と一体になったような暗渠です。石製の蓋も残っていました。傾斜地に合わせて暗渠も斜めに設置されていて、その先の枡で他の方向からの暗渠の排水と合流するようになっています。でも、そこから先の暗渠はすでに無くなってい居るとのことでした。傾斜地に建てられた門の真下や周囲に暗渠が設置されて、門を含めた通路が水でグショグショにならないように、考えられた造りなのでしょうか。

 この石製の遺構は、2019年5月18日の一般向けの見学会の後、すぐに解体作業が始められました。 

 


 上からの角度で撮影した発掘現場です。画像の中央からやや上のあたりが、門の礎石の見つかった場所です。二の丸へと続く坂に近い側にありますが、広い敷地の中での門の位置や、二の丸・本丸との位置関係などに、当時の城の縄張りの考え方などが反映されているのではないかなと、想像がふくらみます。



 こちらは、やはり相当な太い柱が立っていた想像される柱穴です。穴のそばにあるのは、穴の底に在った根石です。穴の直径が1メートルくらいあるとのことで、柱は相当に太いものが使われていたのではないかと言うことでした。城主が仮御殿として使うのは、本丸が焼けたなどの緊急の時だけで、普段は家老の屋敷だった訳ですから、相応の使用人もおり、その使用人たちの住まいを兼ねたような門が在ったかもしれないのだそうです。馬なども飼っていたでしょうから、その出入りなどもあったのでしょうね。



 太い柱穴が在ったのはこの方向。県民会館の入り口にやや近い方です。中土橋門に近い側、外敵が侵入して来る側には、実用的で頑丈な門があって、本丸に近い側には城主のためでもある立派な門があったのかもしれませんね。素人の妄想ですが、当時の人が行き交う姿なども想像しながら、この場所の歴史を思います。