2021/02/26

久保田城渋江家屋敷跡発掘:8(再投稿:2019年06月09日)

 

 上の画像は、排水用の木製の水路です。たいへん立派なもので、使用されている木材もかなりの太さと厚さがあります。中土橋の通りに近い位置、県民会館の出入り口であった所に近い場所で、まとまった長さで発掘されています。


 木製の排水路に使用されている釘状の金具です。かなりの太さがあります。土の中でちょうどいい保存環境だったのでしょうね。木材も鉄材もきれいに残っていました。



 排水路の底面ですが、木を継いだところは段欠きにしてつないでいたようです。



 画像の黄色と黒の土の層は、版築(はんちく)という工法で土が突き固められた跡です。板で枠を造り、その中に土を入れて突き固めますが、違う土を交互に積み重ねて固く突き固める工法だそうです。当時は全て人力ですからすごいですね。この土地の盛土をする際に、周囲を版築で突き固めて高さを出してから、中を埋めていくような工法が取られていたようです。

 一度にどの程度の規模で版築で固めていったかがわかると、そこに必要な人数や工期などの見当がつくそうです。すごいですね。



 右側の柱の穴は、中土橋通りの際ですが、この位置の柱穴が何のために使われたのかは、容易には想像が付かないそうです。立派な門が、これよりも内側に築かれていたので、その外側の穴は何に使われていたのか、建造物があったのか何かの工法の跡なのか、正解を知りたいですね。



 埋没沢と言われる地形の場所だそうです。もともとこの場所に湧き水があり沢となっていたような場所だとのことでした。築城の時なのでしょうか、必要の無いものとして埋められたのでしょうね。今も水が湧いてきており、あまり水が出ると困るので、広い範囲を少しずつ掘っているそうです。一箇所を深く掘ると、せっかく掘っても水没してしまうのでしょうね。



 これは平安時代の屋敷跡の柱穴などのようです。かなり大規模なもので、同じ敷地から出ている平安時代の竪穴式住居跡とはかなり様子が異なるようですね。

 国司などの高級役人級の人物の屋敷じゃないと、この規模は説明が付かないらしいのですが、当時は秋田城が政治の中心地ですから、離れたこの場所にこの規模の屋敷跡というのは謎含みの物のようです。誰がどのように使っていたのか想像がふくらみそうです。

 ゆっくり時間をかけて発掘すれば、様々な発見があるのではないかと思うのですが、現場はとにかく工期に追われている様子で、重機で荒く掘る作業も多いのが実状のようです。この地の歴史がより深く明らかになるチャンスなのに、少々残念に思います。




 発掘は100人規模の人員で続けられており、解体工事の工期ギリギリまで作業が続けられる模様です。事業主体の秋田市と秋田県が、もっと地元の歴史や発掘という行為に理解があれば、時間をかけて調査できたはずなのですが、全ては工事ありきなのだと思われます。発掘現場の人たちは調査期間が短くてたいへんだと思うのですが、残り少ない調査期間にも、また新たな発見があることを願っております。



 一部の石製の遺構などは、すでに解体されています。現在発掘中の木製の排水設備も、今後解体されて運びだされるはずです。こういったものは、埋蔵文化財センターで保管される事になることが多いようなのですが、もとの形に復元しようと思えば、それは可能なことなのだそうです。木製の遺構なども、防腐処理をすれば、おそらく再構築が可能なのではないかと思われます。