2021/02/20

久保田城渋江家屋敷跡発掘:2(再投稿:2019年05月25日)

 

 私の店の前の土塁の発掘調査の時の断面です。山の稜線だった地形を利用して削って造る工法と、盛り土で造る工法を複合して造られているのが、断面からわかるそうです。その境目が素人にもはっきりとわかりますね。

 久保田城になる前の、神明山の地形と周囲の沼や川を利用して、さらにそこに大規模な土木工事を行って、石垣が無くても防御の整った城が造られたわけですが、城主の仮御殿として縄張りされたこの場所は念入りに造られたかもしれません。

 城跡は普通は保護の対象ですので、このように土塁の断面を見られる機会はたいへん珍しいと言うことで、県外から見学に来る人もいました。やはり土塁や城跡を壊すのは止めるべきだとおっしゃっていましたが、地元ではここが城跡だということもあまり認識されておらず、工事を決めた関係者や議員などの人々も、ちゃんとした認識を持っていたのかどうか、疑問に思うところです。



 土塁の内側の裾の部分の断面です。私には名称はわからないのですが、この部分の工法は寺社仏閣などの大がかりな建築物の地盤改良に使われるものだそうです。土塁に使われた例はほとんど無いかもしれないということです。たいへん珍しい例なのかもしれませんが、この写真の部分はすでに削られて消えました。



 この写真も私の店の目の前の土塁のそばです。江戸時代の石製の排水設備です。石を削ったU字溝に蓋も付いた暗渠(あんきょ)ですね。



 県南の湯沢のあたりから運んで来た石かもしれないと言うことでしたが、詳しく調べると色々なことがわかるかもしれませんね。それにしても、石は手作業で削ったのでしょうから、昔の人はすごいですね。

 渋江家屋敷跡の西側では、暗渠はこの部分しか残っていなかったようです。この暗渠とつながっていたであろう部分は、県民会館を造る時の工事で、損失されていたようだということでした。

 この石製の遺構もすでに撤去されて地形は原型をとどめていませんが、400年以上前から残ってきた城跡の出土品や地形が、あっさりと姿を消してしまう様は、見ていて不思議でなりません。多くの人が知らないうちに、街の財産は簡単に消えてしまうのですね。

 ちなみに、こういった発掘で発見されたものは、法令上は拾得物・落とし物として扱われるそうです。ですから、本来は警察署で半年保管しなくてはならないのですね。でも、それは現実的ではないので、最初から埋蔵文化財センターで保管するそうです。