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2021/03/21

サギ:何を食べてる?

 

 最近、近くの池(昔の久保田城の内堀)にいる、白いサギです。捕食行動をよく見る割には、動きが速いのと獲物が小さいために、何を食べているのかよく見えませんでした。

 

 写真で撮影すると、小魚を食べているのがわかりました。くちばしで軽く宙に浮かせて、ぱっくんごっくんという感じで、いい食べっぷりです。
 
 

 サギは水の中を静かに歩いて、獲物に気づかれないようにしている印象がありましたが、春先はまだ獲物になる生き物の活動が低調なのか、わざと足で水底をゴソゴソ探ったり、つんと飛び出た2本の尾羽(?)を水に付けて震わせているような動作をしていました。獲物が動くように仕向けているようにも見えましたが、実際どうなのかはわかりません。
 
 

 こちらは、以前のブログに2020年06月に投稿した写真です。この頃よく来ていたのはアオサギでした。季節により獲物も変わるのか、このサギがアメリカザリガニを捕食している場面を連続して何度か見ました。
 
 

 もう少し遡って、こんどは以前のブログに2017年09月に投稿した写真です。このときは、ドジョウのような体型が細長い魚を捕食していました。雷魚の幼魚かもしれないと思いましたが、よくわかりません。
 
 

 くちばしを1周ぐるりと回るくらいの長さと柔軟性のある身体を持つ魚類です。解像度の低いカメラで撮影した画像から切り抜いたので、モヤっとした画像で鮮明に見えないのが残念でした。
 
 

 以前のブログに2014年06月に投稿したアオサギの写真です。この時サギが立っていた場所は、今はもっと浅くなっています。
 
 

 この池では大きめと思える魚を、このときは捕まえていました。もともと大きな魚影を見ることの無い池ですが、最近は生物の生息環境がますます悪くなってきているような気がします。

 私が知っているだけでも、千秋公園の周囲の水場の生態系はかなり変わってしまいました。千秋公園の内堀も、それなりに綺麗だった頃もあるのですが・・・。
 
 

2021/03/16

千秋公園二の丸の発掘

 

 千秋公園二の丸で、2020年に小規模な発掘調査が行われていました。佐竹資料館のすぐ近くの場所です。 秋田藩久保田城の正式な登城門であった黒門から坂を登り、二の丸に入ったあたりになります。



 細長い範囲が発掘されていますが、千秋公園への入り口となる大坂に融雪設備を導入するための工事の事前調査の発掘です。
 
 柱があったであろう穴などがありますが、何らかの塀があった跡ではないかということらしいです。当時の二の丸は、どのような風景だったのでしょうかね。
 
 

  現在はすでに融雪用の設備が埋設されていますので、発掘調査をしたこの部分の城跡はすでに失くなったと思われます。このあと佐竹資料館も建て直すことが決まっておりますので、それに合わせての発掘調査も行われると思われますが、この部分の発掘と合わせて、久保田城二の丸の様子がどのようなものであったのかが、もっと明らかになっていくと良いですね。
 
 

  この写真は、地層の深さを計測しているところですが、この部分でおよそ1メートル盛土をした跡があると伺ったように覚えております。話しを伺ってすぐに文章を書かず、だいぶ時間が経ってしまったので、記憶が少々あやふやです。
 
 

 深さを計測していたのは、上の写真の中央から少し右のあたりです。その位置で1メートルの盛土だとすると、写真中央から左側の土塁のあたりはもっと高く盛土をしたということになります。かなり大掛かりな土木工事ですね。
 
 

 少しカメラも向きを変えて撮影すると、黒門に下っていく坂があります。坂の下に行くほど、盛土をした高さはますます増えるのことになるのだと思われます。
 
 1万年単位の昔の話だと思うのですが、昔の旭川はこちらの千秋公園の東側を流れていたと伺ったことがあります。東側の三の丸の地形にも、それが現れているそうです。自然の地形を利用しながら大規模な土木工事が行われて造られた久保田城を、いま千秋公園という形で利用している不思議。
 
 散歩道にも歴史ありです。

2021/02/06

新屋ぶらぶら 祖父やら 河口やら(再投稿:2017年08月15日)

 

久しぶりに新屋に行ったので
ちょっとぶらぶらしてみました
記憶通りの場所もあれば
記憶とは変わっている場所もありました

新屋の日吉神社の入口付近に
こんな石碑(顕彰碑)があります
人の顔のブロンズが嵌めこまれていますが
これは 私の祖父です

辻永佐藤治(つじえ さとうじ)という名ですが
苗字を二つも重ねたような名ですね
3代目の佐藤治だったそうです



秋田市と合併する前に
新屋町の最後の町長を務めた人で
町に貢献したことが石碑に書かれています

この石碑は 昭和41年に建立されました
その時 祖父はまだ健在だったのですが
生きているうちに このような立派な物を
造っていただきました

除幕式には私も出ました
石碑の布を引く役目の一人でした
石碑の日付を見ると 2歳7ヶ月頃でしたが
非日常の場面だったからなのか
少しだけ記憶があります

当時の古い「あらや衆報」には
祖父を高く評価してくださる
厚い思いを感じる文を書いて下さった人もいて
ありがたいことだと思います

今回久しぶりに訪れてみたところ
新屋の祖父の家はすでに無くなっていました
祖父のことを 少しは私が書いておこうかなと
何となく そういう気持ちになりました



新屋の町を少しぶらぶらしたあとに
雄物川の河口に行ってみました
河口がずいぶん広くなっていました
大雨の影響でしょうか

親子連れが 釣りをしていました
私も 子供が小さい頃は
何度かこの場所に釣りに来ました 
比較的安全に 釣りが楽しめる場所です

ハゼ・キス・カレイ・ニゴイ・スズキの赤ちゃん
などが エサ釣りでは釣れました

大人は スズキ・ヒラメ・サクラマスなどを
狙う人が多い場所です

昔の雄物川は
今の大橋の辺りから土崎まで続いており
現在の秋田港が雄物川河口だった場所になります

蛇行した雄物川下流では洪水が頻繁に起こり
水害が秋田市の発展を妨げていたそうです

そのため 新たな川となる放水路を造る
大掛かりな工事が行われました
大正6年に始まり昭和13年に完成

その放水路が 現在の雄物川であり 河口です
そして 旧雄物川が
現在の秋田運河ということになります

雄物川放水路の工事と合わせて
茨島と新屋では埋め立て工事なども行われて
現在の街の姿の基礎となったようです

現在 雄物川の両岸に
新屋と付く住所がありますが
つながっていた土地が
放水路の工事で別れた結果だったのですね

それから 新屋と土崎は
互いに対抗心が強いと言われてきましたし
昔は 野球などで熱戦を繰り広げたそうです
応援もすごかったと 聞いたことがあります

雄物川放水路が完成する前は
新屋と土崎は川でつながっていたわけですし
どちらの町も水運と関連があり
秋田市と合併したのも同じ時期ですから
互いに意識してきたのでしょうね


雄物川放水路通水70周年のページ
(2008年)



河口の北側には
風車がたくさん立ち並んでいます
この日は 付近の風車は全て止まっていました

上の画像の左の地平辺りを
望遠で大きく撮影したのが 下の画像です



遠くにも 何機もの風車があります
秋田の沿岸は とにかく風車が多くなりました
そばで見ると 恐いくらいに 巨大です



やはり北側の風景です
遠くに見えるのが 男鹿半島です
浜辺では 子どもたちが釣りをしていました



こちらは 河口の南側
小さいけれど 漁港だと思います



これも南側ですが
雲の塊の向こうに 鳥海山があります
山裾だけ 雲の下側に見えています



河の上流方向を見ると

よく見ると 橋脚が3種類
3本の橋が写っています


***



浜辺の植物 黄色いもじゃもじゃ
ちょっと 海藻っぽい



猿の腰掛? 小さいけど
シーモンキーなら 1000匹は座れる!



仲良く咲いている 黄色い花
・・・スキ・キライ・スキ・キライ・・・
どっちも スキで終わると思う



鮮やかな赤系の花
虫がお食事中?

この花が 下の実になるらしい



あの花から この実 不思議
塩トマトみたいに
美味しかったら良いのに



2021/02/05

千秋公園:石碑など(再投稿:2014年09月21日)

 

本丸の 殉職消防組員招魂碑の 後方にある
「渋江政光君三百年祭記念碑」

渋江政光君 とは誰かと思ったら
佐竹藩の家老だった人

君付けで
ずいぶん気さくな題名の石碑だと思ったのは
私の無知丸出しの大きな間違いで
「君」は「君子」や「主君」に使われる
立派な人という意味
 
これは大正2年の建立



八幡神社の近くにある俳句碑
2つか3つあるうちのひとつ

昭和62年建立の
磯崎夏樹という人の俳句碑なのだが
どのような人だったのかは
私にはわからない



漢文っぽい題字の石碑がいくつかある
その中のひとつ

「陸軍軍医牛丸君碑」と書いてある
明治32年の建立
この時代の「君」の意味は
やはり 立派な人の意味なのだろうか



二の丸の 千秋公園の入り口と言ってもいい場所に建つ
若山牧水の歌碑 平成7年建立
古い石碑と比べると
貫禄はまだまだの若い石碑



若山牧水の石碑の後方にある
昭和3年建立の「太平山三吉大神崇敬之碑」
御大典記念とあるので
昭和天皇の即位を記念した石碑だと思われる

この石碑に向かえば 
 自然と三吉神社の本宮に向かうのかと思ったが
ちょっと向きが違うようだ
 
すごく大雑把に言えば
まあ だいたい そっちの方向
という事にはなるのだが

もしかすると 本宮の方向をさえぎらないように
したということもあるかもしれないが・・

石碑の下部には
秋田駅から 里宮・前岳・奥宮までの距離と
和田駅から 奥宮までの距離などが書かれている

なぜか 秋田駅の駅は旧字体で書かれ
和田駅の駅は現在の字体で書かれている

ちなみに
秋田駅から奥宮までの距離は
六里十八丁とある

三吉神社は 勝負の神様として知られ
野球選手・監督であった王貞治さんのお母さんが
毎年 三吉神社のお守りを用意していたと
新聞の小さな記事で読んだことがある



本丸の 井戸の跡のように見える 丸く組まれた石
中は土で埋まっているので 落ちる心配もないし
誰かが出てくる恐れもない



やはり本丸にある 門の柱の基礎石みたいなもの
普段は気にしていないが
たまにこういった目立たないものに目が行く時がある



由緒のある舟型の手水鉢
お茶室の庭に 何気なく 置かれている
全然 大事なものには 見えない

いくつかまとめて 千秋公園の石碑を紹介したが
他にも石碑の類はいくつもある
すべてを網羅するパンフレットでもあれば
見てみたいと思う


2021/02/04

千秋公園:歩兵第十七連隊之碑(再投稿:2014年09月17日)

 

千秋公園本丸の 与次郎稲荷の入り口付近に建つ
歩兵第十七連隊之碑
昭和57年建立

花が供えられている
何十年経っても忘れない人がいる

明治18年に仙台で設立 明治31年に秋田に移動
主に秋田の人間が入隊する部隊となった
第二次世界大戦での敗戦と共に解散



日清戦争 日露戦争 満州事変 などの戦歴があり
第二次大戦末期に フィリピン ルソン島で
激烈な戦闘を繰り広げる

およそ3000人いた兵士が
終戦時には900人ほどに減っていたと
この石碑には刻まれている

ネット上のNHKの戦争資料のページによれば
生き残りはさらに少なく 700人ほどとなっている



この石碑には書かれていないが
フィリピンでは ゲリラ掃討作戦を担い
多くの民間人を殺害した部隊であった

女も子供も殺した

戦闘がつづき
ゲリラかどうかの判断がつかない中
行き着いたところが
無差別の民間人への暴力と虐殺

NHKの戦争証言のページで
数人の元兵士が証言している

毎日の戦闘での疲弊 次々に死ぬ兵士
略奪行為 殺害行為 一部の食人行為
生々しい体験が語られている

平和な日本で暮らす中
家族がありながら それでも証言されたことに
元兵士の方々には 敬意を表したい

NHKのページはこちら:番組も証言記録もある

私の住むところと
駐屯地のあった場所は すぐ近くなのに
地元の部隊の存在も その戦歴や 民間人の虐殺の事実も
つい2週間前まで知らなかった
私に限らず 知らない人は多いと思う

子どもたちには教えたが
記憶のどこかに残って欲しいと思う

保守的な人が好んで使うのだろうか
自虐史観などという言葉があるが
やった側として
事実を認識していることは とても大切なことだと思う

地元の部隊を讃え顕彰するだけではなく
おこなった事実を教え
他国の人も追悼する気持ちを
子供の頃から教えるのも大切なことだと思う

やられた側として 日本が原爆を長く忘れないように
他の国々にも忘れられない出来事が多くあるのだと思う

いまでも 亡き先人を思い
歩兵第十七連隊之碑に花を供える人があるのと同じように
他の国にも 忘れない人がいる



歩兵第十七連隊の駐屯地は
現在の秋田駅前から 市民市場やNTTの方に向かって
4万2千坪以上の広さがあった

中央の大きな石碑は 昭和41年建立 
周囲の小さな石碑は古く 駐屯地であった時代のもの

場所は 伊藤学園 秋田予備校の 裏手の
こじんまりとした所



石碑の向かい側のちょっとした公園が
国学者 平田篤胤の生誕の地
軍学にも精通していたという



昭和三年陸軍記念日の建立 誕生の地の石碑
「陸軍大将 本郷房太郎 書」とある



同じ公園内 明治41年建立の石碑
「歩兵第十七連隊長 高草木重列 建立」
と書かれているようだ

おもしろいのは
前も後も まったく 同じ文字が彫られていること

「嗚呼」ではじまるところも 珍しいと思ったのだが
検索してみると
「嗚呼」で始まる多くの石碑があるようだ

平田篤胤の終焉の地は
ここから徒歩でも10分とかからない
南通り沿いにある

また 墓所は 手形山にある
秋田大学裏手の 住宅地の小道の奥の 小高い場所

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今まで あることも知らなかった石碑に
戦争の記憶が刻まれていたと
あらためて気付かされた

最近は 近隣の国の言動に
それはないだろうと思うこともあるが
日本の政治家や官僚の戦後処理が
十分ではなかったことも一因なのではないかと思う

私の無知も 私の不勉強だけの問題ではなく
たぶん 政治や教育の問題という側面もある

出征し戦死した多くの日本兵はもちろん
日本兵に無残に殺された人々のことを
知っていなければならないと思う


2021/02/03

千秋公園:殉職消防組員招魂碑(再投稿:2014年09月13日)

 

本丸の 八幡神社入り口近くにある
殉職消防組員招魂碑

消防組という言い方を
ほとんど耳にしたことがなかったのだが
江戸時代の火消しの組を継承した
言い方なのかもしれない

明治時代から昭和10年代までは
法律の上でも
消防組織をまとめて 消防組と表していたようだ

現在でも 消防署や消防団などの
消防に関わる組織に所属する人を言い表すために
消防組員という言葉が使われているのかもしれない



招魂碑の飾りは
火消しの 纏(まとい)と鳶口(とびぐち)

時代劇も少なくなったし
今の子どもたちが見て わかるだろうか

この石碑の台座部分の形状にも
何か意味があるのかもしれないが
残念ながら私にはわからない

この招魂碑の前では
毎年 慰霊祭が行われている

2021/02/02

千秋公園:殉難警察官之碑(再投稿:2014年09月11日)

 

二の丸から 売店横の階段を登り切った
本丸の入り口付近に建っている
殉難警察官の碑



明治時代からの殉職者の名が刻まれている
石板もある

実は 最も多いのが 防疫活動による殉職
明治から大正にかけて
若くして亡くなった警察官が多い

当時 防疫活動は
衛生警察としての重要な活動だったと思われる

おそらく コレラや赤痢などの流行に
対応した警察官が 病気を発症してしまったのだろう

殉職者の石板を見ながら
若くして亡くなった無念を思う
同時に 医師や看護師などの 直接的な医療従事者は
もっと多くの人が亡くなったのではないかとも思う

石碑に名を刻まれることもない人たちも
疫病の矢面に立っていたのかもしれない

現代の警察に 防疫活動のイメージはあまり無いが
凶悪な疫病が流行った場合には
人の移動の制限などに 警察官が動員されることだろう

最近のデング熱の広がりには驚くが
さらに凶悪な疫病が国内に入り込まないことを願う