2021/02/18

城跡は大事にして欲しいな(再投稿:2019年01月11日)



 解体前の、在りし日の秋田県民会館です。2018年5月に撮影したものです。県民会館の最後のイベントの日に撮影したような気がするのですが、この時はすでに外壁の塗料を剥がすための足場が組まれています。

 県民会館は、久保田城の城跡の小高い土地の上に建てられていました。この土地は、久保田藩の家老であった渋江家の屋敷跡です。また、久保田城主のための仮御殿跡でもあります。本丸が火事で焼けた時などに、実際に城主がここに住んだ歴史があります。

 県民会館が建っていた土地は、久保田城の三の丸の地形が約400年前からの姿をとどめて残っている場所なのです。この歴史的・文化的な意味のある場所で、これから行われる新文化施設の建設事業は、実はこの城跡を破壊してしまう事業でもあります。

 この土地が、久保田藩の家老の屋敷跡であり、また城主の仮御殿跡でもある歴史的な場所であるということは、残念ながら秋田市民の多くは知らないと思います。また、これから建設される新たな文化施設の工事で、この土地がほとんど削り取られて消失してしまうことも、多くの市民は知らないと思います。

 これから建てられるのは、県の県民会館と市の文化会館を一体にしたような、県と市が連携して建設する巨大な複合施設です。様々な建前や効果が語られる、良い印象の記事や報道を目にする事が多いと思うのですが、この事業によって城跡が破壊されてしまうことや、この土地の歴史そのものについてはあまり語られることが無いように思います。郷土史や考古学や城跡などについての専門性の高い一部の人にとっては常識的なことなのかもしれませんが、一般にはそれほど知られていないと思われる、この土地の歴史的なことについて、少しまとめてみました。



 県民会館跡地・新文化施設建設予定地のすぐそばにある、久保田城跡であることを示す石碑です。左の池は、久保田城の外堀だったところです。堀の内側ですから、この一帯は全体が城跡です。市政90周年を記念し、昭和54年(1979年)に設置されたことが背面に書かれています。

 現在の千秋公園全体が久保田藩の城跡です。久保田城になる以前は、新明山という名の山だったそうです。県民会館の建っていた場所も、その自然の地形を活かしながらも大規模な土木工事が施された場所です。

 この石碑のあるあたりが、中土橋門という城への入り口の一つでしたので、ちょうどここからが城の内側だったということになりますね。



 石碑と今回の建設予定地を一緒に写すと、このような感じです。県民会館の上屋の解体中に撮影した画像です。石碑の背景の小高い部分が、外堀に面した城の土塁です。敷地の南側のこの土塁と、西側の土塁の一部は残りますが、他の土塁や屋敷のあった郭(曲輪・くるわ)は、ほぼ全て削り取られて消失します。

 新たな施設の建築計画では、広小路側から見ると一見は城跡の土塁を大事に残しましたという風に見えるようになっています。でも、実際にはこの土地はほとんど削り取られてしまう設計です。城跡の小高い土地をほとんど削り取った上で、新たな施設は建設される予定なのです。平安時代以前の土や築城当時の盛り土や、埋蔵文化財の発掘調査で見つかっている歴史的な痕跡も、みんな削られて無くなってしまいます。

 新たな文化施設の建設事業は、久保田城跡の石碑のそばで、城跡を破壊する大規模工事が行われるということでもあるのです。



 ガラス越しでぼやっとした写真になってしまいましたが、久保田城跡の石碑のそばに在る明治元年現在の城郭図の一部、中土橋付近の絵図です(上が西)。渋江内膳の屋敷部分には、県民会館と図書館の文字があります。昔は、県立図書館がここにありましたね。隣接する梅津小太郎の屋敷部分には、県立美術館の文字があります。

 渋江家も梅津家も、久保田藩の創設当時からの重臣で、どちらも家老を何人も輩出した同格の家柄です。

 この絵図が設置されたのがいつなのかの表示は見つけられませんでしたが、ここに県立図書館があったのは1993年までのことですので、それ以前に設置されたということになります。



 宝暦13年、1763年の久保田城の絵図の中土橋付近です。この図では、上が本丸の在る北になります。今回の建設予定地には、渋江内膳の名があり、旧県立美術館側には、梅津小太郎の名があります。

 渋江家の屋敷の周囲全体が、一段高くなっている事が示されています。渋江家屋敷跡の土塁は、久保田城になる前の神明山の地形がそのまま土塁にも利用されているとのことで、削り出しと盛り土の複合工法の土塁とのことです。地盤強化のために、土塁では他に見られないような、全国的に見ても非常に珍しい工法も用いられているそうです。

 平らに見える梅津家の屋敷の敷地は、沼地を1.8メートルほど盛土をして造成されたそうです。小高い渋江家側は、沼地に接するもともと地面だった土地に、大規模な土木工事が行われたものなのだそうです。

 梅津家は、久保田藩の黎明期に銀山奉行なども務め、秋田の鉱山の基礎を築いた重臣の家柄です。現在も秋田市には銀線細工などの金工文化が残っていますが、秋田市の城下町文化の一つである金工の源流の一つに、梅津家もあると言っても良いのかもしれません。物づくりは、素材があってこそですからね。



 これは、千秋公園の御隅櫓にあるジオラマの渋江家と梅津家の場所を撮影した画像です。古くなって劣化してしまったのか、お堀の水の色に青みが無くなり砂色になっていました。写真の下側が、現在の広小路の位置になります。

 今も残る土地の姿と、ほとんど同じですね。久保田城の三の丸の地形があまり姿を変えずに残り、現在の姿になっているのがわかります。



 ちょっと角度を変えて見ると、このような感じです。今も残っている土塁や、無くなってしまった土塁が、何となくわかりますね。旧県立美術館の入口あたりは、手が加えられて少し形を変えたようですね。



 少し寄ってみましょう。渋江家の屋敷の建物の配置などは、実はわかっていないそうですから、想像で建物を配置したものだと思われます。



 もっと寄ってみると、渋江家の屋敷への階段と思われるものもあり、敷地全体が一段高くなり土塁と一体化した郭だったのがわかります。本丸消失のおりに殿様の仮御殿として使われた屋敷ですが、築城当初から殿様の仮御殿になる場所として縄張(設計)されたのだそうです。

 この地形がそのまま残っているのに、今回の新文化施設の工事では、この渋江家屋敷跡の小高い土地をごっそりと削り破壊してしまいます。残念でなりません。

 ちなみに、渋江家の表示の後方に、穴門の表示がありますが、そのあたりがちょうど私の工房の在る位置です。工房の前の城へと続く通路の形は、今もそのまま残っていますね。



 ぐっと引いて、城郭全体の様子です。千秋公園全体が城だったのがよくわかりますね。山や川や沼などの自然の地形を活かしながら、さらに大胆な縄張と土木工事で、久保田城が造られたのですね。

 今回の事業予定地も向かいの旧県立美術館側も、久保田藩創設に尽力し功績のあった、最有力の家臣の広い屋敷跡だったのです。それが400年以上前から残っているのですから、大切な街の財産と言えますね。



 これは、千秋公園に在る渋江政光の記念碑です。正式な名前は渋江内膳政光だったそうです。久保田藩創設に大きく貢献した重臣で、久保田城の縄張(設計)にも携わり、家老も務めました。この人の屋敷跡が今回の建設予定地です。

 千秋公園の渋江政光の記念碑は、大正2年、1913年に建立されたものです。渋江政光は1614年に大阪冬の陣の今福の戦いで亡くなったそうですから、没後300年の記念碑だったのですね。この記念碑の写真は2014年にもブログで紹介したことがありましたが、それはこの記念碑の建立から100年、渋江政光の没後ほぼ400年の年だったのだと、今回あらためて気が付きました。没後400年以上経ち、城の縄張(設計)にも携わった渋江政光の屋敷跡地が、城跡の一部として当時の形をとどめて残っているのですから、本当に貴重なものだと思います。

 当時の渋江政光は、久保田藩初代藩主の佐竹義宣が能力重視で重用した、若手の実力者という存在だったようです。それをよく思わない家臣によって、佐竹義宣と渋江政光の暗殺謀議も起こったそうです。藩主佐竹義宣のもとで、久保田藩創設と基礎作りのために、渋江政光は尽力したのでしょうね。

 久保田城の縄張や城下町の町割には、初代藩主の佐竹義宣も直接指揮をしたという話もあるそうです。佐竹義宣は豊臣秀吉の命で伏見城の普請にも動員されており、城の普請などにも能力を発揮した大名だったようです。

 そして、久保田城の築城や町割の実際の工事には、当時この地に住んでいた人々が参加しています。当時の一般の人達が参加して造り上げたものが土台となり、今の秋田市の基礎となっています。城や城下町の痕跡は大名や家臣の行った事業の痕跡であるというだけではなく、多くの庶民が参加して行われた大土木工事の痕跡でもあります。祖先が残した街のルーツの一つです。


 県民会館の解体工事は進み、建物はすでにありません。県民会館跡地全体が久保田城の城跡であり、城主が仮住まいしたこともある歴史的な場所であることを、そしてその場所がこれから大きく損なわれることは、あまり知られていないかもしれません。

 県民会館以前には、大正から昭和にかけての記念館(大正天皇御即位記念会館)があり、明治から大正にかけての公会堂があったのですが、これらの建築でも、小高い地形が大きく損なわれることはありませんでした。そして、県民会館の建設でも、この小高い土地はその姿のまま利用されていました。

 当時の関係者が、この土地についてどのような考えを持っていたのかはわかりませんが、この土地の根本を破壊するような設計や工事はしませんでした。より古い、記念館や公会堂は、デザイン的にもこの場所にはふさわしい素晴らしい洋館だったと思います。

 記念館や公会堂の画像などはこちらから。googleの画像検索結果のページを開きます。

 上記検索結果の画像からは、昔の事がわかるページを開くことができると思います。美しい施設がここにはあったのですね。

 過去の文化施設の建設では残された城跡の地形を、なぜ今この下り坂の社会の中で破壊する必要があるのか、不思議に思います。人口は減り続け、土地は余っていくのに、何故と言う気持ちになります。

 歴史観を持つことができるかどうかは、人と動物の違いの一つだと思います。過去を探求し、そして現在を知り、未来を考える。それが人の人たるところですね。でも、今回の事業は残念なもののように思います。地域の持つ価値を見直し掘り起こすという時代の流れにも、合っていないと思うのですが・・・。



 上屋の解体が進み、大きな建物が無くなったことで、空が広く見晴らしが良くなりました。将来は隣接する梅津家の屋敷跡と合わせて、城跡公園の入り口として整備しても良さそうに思います。街の顔にも、観光の軸にもなってくれるでしょう。400年以上前から残るこの土地を、後世の市民のためにも、歴史的な意味のある姿のままで残してほしかったですね。

 250〜300億円という巨額の事業費が見込まれる今回の事業は、文化のためということになってはいますが、実際には工事そのものが目的のようなところがあるのは、いつもの箱物行政と同じなのだと思います。完成後は間近な商業地域にも恩恵があるのだと思いますが、城跡を残しながらできることもあったのではと思います。

 近くのなかいちに、当初の予定通りにホールが造られていれば、今回の事業のように施設が何年も利用できなくなるということもなく、歴史的な土地を壊してまで巨大複合施設を建てるという話にもならなかったと思います。文化のためと言って、文化的・歴史的な土地を破壊するのですから、間近に工事を見ながらがっかりしています。



 中土橋から見た、今後造られる予定の施設の完成パースです。渋江家跡地の小高い土地は大きく削られて、道路と同じレベルになります。土地が削られてその姿が失われれば、城跡としての意味も大きく損なわれます。



 東側から見た正面完成パースです。施設の正面から見た時に残るのは、画像左端の土塁だけです。



 広小路側からの完成パースです。手前の堀に面した南側の土塁と、西側の土塁の半分だけが残ります。城跡に配慮しましたという体の設計ですが、本質的には、城跡を大きく損なう設計です。

 渋江家屋敷跡であり、城主の仮御殿として造られた小高い土地は削り取られて消失し、二度と元には戻りません。その事実は、一部の土塁を残すことで隠されるようなことではないですね。

 埋蔵文化財の発掘調査をした上で 、デジタルデータに永久に保存しますとお役所は言いますが、現実からは永久に消失してしまうのですから、永久にデータに残すという言葉にどれだけの意味があるのか、よくわかりません。詭弁のようにも思います。

 数十年〜百年後の将来ここに残るのは、数百年前からの城跡ではなく、劣化が進み耐用年数が限られるコンクリートの建造物ということになります。今から26年後の2045年には、県人口が60万人に減り高齢化率は50%以上と予想される秋田で、歴史的な遺産を破壊してまで、巨大施設の建設が必要なのか疑問に思われます。

 歴史的なものを残すことは、人の大切な役目の一つなのではないかと思います。子孫から預かっている歴史的な土地を大切にせず壊してしまうことは、長い目で見ると、将来の人や土地の存在の意味にも影響することになるのではないかと思います。



 これは、私の工房の目の前の土塁です。この写真ではまだ、樹木が残されていますね。この後、樹木は伐採され、埋蔵文化財の発掘調査が行われたため、今はもうこのような姿ではありません。

 いまは土塁の土がむき出しになり、ブルーシートが掛けられています。後世のものですが趣のある石垣も、400年前から変わらぬ土塁も、今後の工事で消えて無くなります。久保田城への入り口の一つだった、穴門の地形が当時に近い形で残っている場所ですが、全て無くなるのです。

 この土塁に接する和洋高校の敷地は、2階建ての駐車場になりますが、それは渋江家の下屋敷だった場所です。土塁の外側の外堀に接する低地にあり、穴門のそばに造られた渋江家の下屋敷。この配置は、城を守るため・城主の仮御殿を守るための、防衛上の目的などがあっての造りなのでしょうね。



 新文化施設の設計を大雑把に反映させて完成形がイメージしやすいように作られた、完成モデルの一部です。この画像の中央のトンネルのような口の開いたあたりが、私の工房の目の前の土塁の場所です。土塁は削られて失くなり、コンクリートの土台が造られます。実際には、45センチ幅の植栽と、手すりが設けられる予定ということでしたが、ここは大型トラックの切り返しスペース兼待機場所になる予定です。

 歴史的な場所であるはずの目の前の土塁が、新文化施設の工事によって、このようなコンクリートの人工物になり、施設の勝手口的な用途の場所になってしまいます。県民会館の時も、施設の裏口ではあったのですが、全く違う性質の場所になってしまいます。

 大型トラックの旋回スペースだけでなく、駐車場への車両の動線・コンサートホールと劇場の2つの搬入口・屋外機械室などが、今回は住人のいる北側に配置されています。県民会館の時には、こういった日常生活にも影響の出そうな機能は北側には無かったものです。地域との関係性や施設の在り方としても、大きな変化だと思っています。

 なぜ、歴史的な地形を壊してまで、このような設計の施設を造らなくてはならないのでしょうか。秋田は、せっかく良い物を持っているのに、自ら良いところを破壊してしまっているように思えます。新しく開発して、味気のない街になっていく、いつものパターンになりそうな予感がしてなりません。



 最後に、明治初期の写真です。現在の千秋公園で言えば、南西の角から写した写真です。画像の右上方には久保田城の書院であった建物があり、左の奥の方には御隅櫓が写っています。(どちらも火事で消失。)

 橋を渡りきった右端のほうに現在の私の工房があり、穴門の場所になります。

 この頃は、まだ久保田城の姿をそのまま残していたようですね。そこから今に至るまでに、ずいぶん変わってしまいましたが、千秋公園の地形はほとんど変わっていないようです。

 今回の建設予定地のように、城の土塁であり郭であった場所、また家老の屋敷跡でもあり城主の仮御殿跡でもあった場所は、何世紀ものあいだ消えることなく残ってきた、貴重な歴史的な遺産です。市民の財産・地域の財産として、大切にして後世に残すことができないものかと思います。

 もちろん、デジタルデータではなくて、現実のものとしてです。