2021/02/21

久保田城渋江家屋敷跡発掘:3(再投稿:2019年05月25日)

 

 発掘調査ではいくつもの井戸の跡が見つかっていますが、見つかった井戸のうち、最も造りが良く水質が良かったと考えられる井戸の写真です。発掘が進んだ状態の写真ですので、発掘当初はもう少し違った様子だったそうです。渋江家の当主や、本丸焼失の折りに仮御殿として住んだ城主のためのものだったかもしれない井戸と想像されるそうです。



これも井戸の跡とのことでした。


 こちらも井戸。最初に紹介した造りの良い井戸と比べると、2枚めと3枚めの写真の井戸は造りが異なっていて、水の状態が良くなかったかもしれないとのことです。



 やはり私の店から近い位置にある、敷地の西側の柱の立っていた穴の跡などです。左端には竪穴式住居と同じ造りの小ぶりな施設跡も見受けられます。



 これが、竪穴式住居と同じ造りの構造物があった跡ですが、食糧の倉庫などに使われていたかもしれないものだそうです。

 多数ある柱の穴については、建築物としての柱同士の関係性が見つからず、ここにどのような形の建築物があったのかはわからないとのことでした。城主仮御殿 兼 渋江家屋敷跡については、図面が残っておらず、どのような建物が建っていたのかが不明のままなのです。およそ4000坪のこの土地に、1000坪の屋敷が建てられていたということは記録にあるそうです。

 県民会館の建物の真下は地下も工事が行われていたので、昔の地層が失われていて発掘調査ができない状態です。屋敷の詳細について知るために大事な部分が、すでに失われているようです。



 西側の土塁のちょうど真ん中あたりです。土塁の断面が露出していますが、ここから右側は削られて無くなります。広小路から見える側だけは、土塁を残し城跡を大事にしましたの体にするようです。大事にした振りですね。



 渋江家屋敷と城主仮御殿を兼ねていたこの小高い土地を掘り下げ、下から黒い土が見えているところです。上の明るい色の土は江戸時代の地層で、下の黒い土は平安時代以前の地層とのことでした。江戸時代と平安時代の間が無い? なんとも不思議ですよね。

 実は、久保田城の築城の工事の時に、平安時代の地層の上にあった地層は、一度削り取られているのだそうです。その上で盛土したのですね。

 隣接する梅津家の屋敷や中土橋の通りは、沼地であったところを1.8メートル以上盛土して造成した土地なのだそうですが、まずは近場にあった土を移すところから工事を進めたのかもしれませんね。築城の大土木工事は、大規模な土の移動作業だったのかもしれませんね。

 素人の妄想ですが、当時の人達が大規模な土木工事を行って、山や川の姿を造り変えて城を作った様子を想像すると、本当にすごいなと思います。