2021/02/25

久保田城渋江家屋敷跡発掘:7(再投稿:2019年05月25日)

 

 県民会館の入り口のあった場所の近く、この場所が久保田城であった頃の中土橋門に近い位置で見つかった石製の遺構です。この石製の遺構は、昔の絵図と場所や形状などが一致するそうです。

 私が現場を見せていただいていたこの時に、この写真の少し奥のほうで、 「予想通りのところから出てきました」と言う声が聞こえてきました。


 写真ではちょっとわかりにくいですが、「予想通り」に出てきたのは、柱の穴とその底に在る根石です。すでに見つかっていた柱の穴の位置から予想を立てて掘る作業をされていたようです。柱がこの位置だと、門の向きが予想と異なるかもしれないという話も聞こえてきましたが、まだこの後も柱の跡は出てくるのかもしれないということでした。予想はするけど予断はしない、そんな作業なのかなと思いながら、現場を見させていただいておりました。



 穴がたくさん開いていますが、この地層は今から数万年以上前の、まだ日本に人が住む以前の地層です。このような古い地層を現場では「地山」と呼んでいるようでした。ローム層と言っても良いとのことでした。

 人が日本に住むようになる以前の地層に、人が生活した痕跡が在るのは、その上の地層から掘り下げられた穴だからです。この露出している地層の上には、縄文から平安までの地層とその上の江戸の盛土の地層があったわけです。やや後方のポツンと小高いところが、江戸時代に整地された高さです。

 今回は解体作業と同時に行われている発掘作業のため、時間が少なくて相当に掘り急いで作業をしている印象です。



 中央やや上の大きな穴は、ゴミ捨て用の穴です。こういった穴がいくつもあり、このゴミの穴の中に入っていた土は、手前の土嚢袋の中に収められています。



 江戸時代にゴミとして捨てられた物である土嚢袋の中の土は、全て水洗いされます。中に入っているものを探すのですね。



 ドロドロの状態からだいぶきれいになっていますが、大量の木片という感じで、この中から意味のあるものを探すのは大変なことだと思います。



 この日の地道な水洗い作業の中で見つけられた物の一つが、人形の頭部でした。なかなか味わいのある顔つきです。完成形の人形としてはどのような姿をしていたのでしょうね。



 こちらは、文字の書かれた木簡です。何が書かれているのでしょうね。こういう物が見つかると、うれしいでしょうね。