2021/02/24

久保田城渋江家屋敷跡発掘:6(再投稿:2019年05月25日)

 

 私の店のすぐ前の、久保田城跡の発掘調査から現場の写真を紹介します。

 1枚目は、縄文時代に狩猟に使われた落とし穴です。落とし穴と最初に説明されたときには、さっぱり意味がわからず、縄文時代の狩猟用と聞いてビックリしました。長さは3メートルほど、深さは1メートル以上、幅は0.3メートルといったところでしょうか。穴に落ちると、身動きできなくなる細さです。

 縄文時代というのも長い期間ありますが、この落とし穴の後については、3000年から4000年くらい前のものではないかということでした。久保田城になるよりもずっと古く、遥かな昔から、私たちの祖先はここで暮らしていたのですね。



 これは、平安時代の竪穴式住居の跡です。西暦900年頃のものと考えていいそうです。やはり江戸時代よりもかなり古い、平安時代の祖先の暮らしの痕跡ですね。この付近の住人も、秋田城に年貢などを納めていたのではないかと想像されるそうです。

 平安時代の竪穴式住居跡は4基あるそうです。土を採取した跡と、焼き物を焼いた跡があり、ここで焼き物が焼かれていた可能性が高いそうです。どんな焼き物を焼いていたのでしょうかね。



 縄文や平安の生活の痕跡、柱の穴などがまとまってあるところです。県民会館跡地の南西の角辺りです。実は、土を掘ると敷地には広くこのような痕跡があります。



敷地の南西の角を上から撮影した画像です。



 これは井戸です。井戸は何ヵ所もその痕跡があります。水が枯れると掘り直したのかもしれませんし、屋敷を建て替えた時に新たに掘ったりしたのかもしれませんね。



 こちらはゴミ捨て用の穴です。敷地のなかにはこのような穴が何ヵ所もあります。臭くなったり量が多くなると埋めて新たな穴を使い始めると言うことで、何ヵ所もあるそうです。敷地の西側の下屋敷側に多くあるようでした。屋敷の裏手と言うことかもしれません。



 ゴミ捨て用の穴は、県民会館の入り口にやや近い辺りにも掘られていました。ここは、屋敷の裏手ではないはずなのに、少々不思議な感じもするような位置のようでした。

 何やら白いものが山になっているのが写っていますが、土嚢袋に納められた、ゴミ捨ての穴の中の堆積物、つまり昔のゴミがこの中に入っています。これを水洗いしながら、中に入っている遺物を探すのだそうです。まだ未調査の袋も大量にあって、これは気が遠くなりそうな作業ですね。細かいものだと、魚のウロコなども入っているそうです。海の魚と川の魚、どちらが多いのでしょうかね。



 これは、城主の仮御殿 兼 家老の屋敷跡であるこの小高い土地の、江戸時代の土木工事の状態がわかる土地の断面です。このクラスの城跡を、このような形で掘るなどと言うことは、基本的にはあり得ないことでしょうから、とても貴重なものだと思われます。

 下の黒い地層は古い時代のもので、その上に久保田城の築城に当たっての、土木工事が施されています。まずは拳よりも大きな石を積み、その上に徐々に小さな石を積み、最後は土を盛っている状態のようです。水捌けが良いように地盤改良が行われているそうです。

 この土地は、山の稜線だった場所なので、盛土の量も場所により異なるのですが、多いところだと5メートルも盛土されているそうです。ものすごい量の土を使って工事を行ったのですね。地形を変えて、その土を移動させながら、合理的に工事を進めたのでしょうかね。

 私たちの祖先が行った工事ですから、何故これを破壊せねばならないのか、とても残念に思います。石垣の無い久保田城で行われていた高度な土木工事は、地元の人間が誇っていい歴史的な地域の財産だと思うのですが。主要な城が石垣のない土塁の城であるのは、東北でも秋田だけだと思いますし、壊さずに大事にして、街の財産として有効に使えば良さそうなものなのですが・・。



 水捌け良く工事が行われて、そこからの水の行き先は、小高いこの土地の裾野にあたる中土橋の通りの脇です。中土橋通りは、沼地だったところの土を入れ換えて突き固めて造られた土地です。そこに水が滲み出してグショグショになっては困りますよね。ちゃんとそうならないように、小高い土地の裾野の辺りは粘土質で固めてあり、そこに溝を掘って排水されるように造られているのだそうですよ。ちょうどその溝のあったあたりの画像です。おそらく、現在の広小路の堀のほうに排水されていたのではないかと言うことでした。

 緻密に考えられた土木工事が行われていて、非常に高度な土木工事を、当時の人たちが人力で行ったことに、感動を覚えます。