2021/03/18

久保田城穴門前の発掘ふたたび

 新たに発掘された井戸を拝見してきました。今回の穴門前の発掘場所では合わせて5つの井戸が見つかったそうです。
 
 

 井戸の向こう側の地層の、写真右から1/3くらいの位置に、黒い土と黄色っぽい土の境目が見えますが、黒い部分が井戸を造る時に掘られた穴の大きさになります。大きく穴を掘り、木枠(桶)を造りその周囲を埋め戻すと言う工程で井戸は造られているそうです。

 この井戸がどの程度の深さまで掘られているのかは、この状態ではまだわかりませんが、近くに掘られていた井戸は5メートル以上の深さがあったそうです。木枠(桶)を4.9メートルまで掘り進めて、その下にさらに次の段の木枠(桶)があるのを確認したそうです。軟弱地盤であまり深く掘るのは危険なため、掘るのはその深さまでにとどめたそうです。
 
 この井戸は、掘られた位置から考えると、公共の井戸だと考えられるそうです。公共とは言っても、街の人が気軽に使うと言うことではなくて、城の中に入ることのできる人たちが使うための、公共性のある井戸と言うことだそうです。
 
 井戸の木枠の樹種の鑑定はこれからということでしたが、杉ではないかとのことでした。桶や樽の技術がいつ頃から在ったのかは知りませんが、今で言うところの秋田杉桶樽に通じるものが、地中でも使われていたということかもしれませんね。
 
 前回の投稿で紹介した旭川を埋め立てる工事で使われた木の杭の樹種は、栗とのことでした。 湿気に強く耐久性が高い樹種なので、昔からこういった工事にも使われていたのでしょうね。古くからの知恵ですね。
 
 

 発掘現場で見つかった、器のかけらです。これらは当時のゴミと言うことでした。発掘現場の築城の土木工事が行われた時期よりも、新しい時代の器のかけらだということでした。そのため、今ひとつすっきりしないところがあるようです。焼き物の名称を、何度も伺っているのですが、どうしても覚えられません。聞いたことのある名称ばかりなのですが・・・。
 
 いつも話しを伺うときは、楽しくてたくさんの驚きがあって面白いのですが、残念ながらそれが私の中に知識として蓄積されていってくれません。基本的な名称も覚えられずです。
 

 さてこれは、正保国絵図の中の一つ、「出羽国秋田郡久保田城画図」です。1644年に幕府が全国の大名に対して、国の絵図を作成することを指示して作られたものだそうです。当時の久保田城と城下の絵図になります。
 
 昔の絵図を、今はデジタルデータで全体を見たり部分を見たり自由にできますが、実物は3メートルもあるような大きな絵図だったりするそうです。デジタル化される前は、巨大な絵図を見るのも一仕事だったそうです。部屋の敷物サイズですね。実物大国絵図カーペット欲しいかもです。
 
 

 絵図の中の久保田城のあたりを切り抜いた画像です。現在の千秋公園の周辺図と言うことですね。千秋公園・内堀・外堀・広小路など、現在の地形と同じですね。秋田駅のあたりは堤と書かれているので、沼か池のようなものだったのでしょう。
 
 

 さらに中土橋の通りを中心に切り抜くとこのような感じです。今回発掘されている場所や、当工房のおおよその場所や周辺施設名を書き込んでみました。丸く囲んだ発掘場所の位置には、井戸があることが記されています。
 
 工房の前の土塁などは壊されてしまったので、城跡の実感はありませんが、間違いなく昔で言えば城郭の中に当工房は建っています。こういった絵図を見ると、秋田市は城下町を中心に発達してきた街なのだということがよくわかりますね。
 
 ところで、この絵図の名称は「出羽国秋田郡久保田城画図」です。「秋田藩久保田城画図」ではありません。実は、〇〇藩と言う藩名が広く一般に使われるようになったのは明治になってからのことで、正式な藩名は明治時代になってから決まったようです。

 明治元年に正式な藩名が決まり、明治4年には廃藩置県で藩は県に変わったということらしいので、藩名は公式には4年ほどの存在だったということなのでしょうね。
 
 以下の引用は、wikipediaの「藩」のページから、秋田に関する部分の抜粋です。
 
久保田藩は江戸時代の藩主の官位として「秋田侍従」があり、戊辰戦争の際も郡名由来の「秋田藩」を名乗り、「秋田藩印」とする藩印を明治政府に提出しているが、藩庁所在地を藩名とする原則が徹底されたことにより、「久保田藩」が正式な名称となった。藩としては歴史的に使われた名称である「秋田藩」と呼ばれることを願い、城下町の名称を久保田から秋田に変更した上で、藩名を久保田藩から秋田藩に改名している。 
 
 最初は「久保田藩」と名前が付けられたけれど、後から「秋田藩」に変更したということです。この記事を書いている時点でのwikipediaには、「久保田藩」のページはありますが「秋田藩」のページはありません。でも、当時の秋田の行政機関が公式に政府に願い出て「秋田藩」と言う名称になったわけですから、現在の秋田県や秋田市などの公的な立場から言うと、「秋田藩」の名称を基本にしているようです。でも、逆に「久保田藩」を基本に考えている立場もあると言うことらしいのです。秋田は、二つの藩名を持っていたと言うことですね。

 歴史の知識が乏しいために、自分が住んでいる場所の藩名をどう書くべきなのか一時は迷いました。でも、あるとき市の学芸員さんから話しを伺う機会があって、それから私が文章に藩名を書くときには、「秋田藩」と書くことで落ち着きました。
 
 もしも、城郭の中であるこの場所でカフェをやるとしたら、藩名のうんちくを語るためのきっかけメニューとして、「秋田藩ブレンド」と「久保田藩ブレンド」をつくる、といった妄想をはじめたら、藩名チョコレートやら藩名クッキーやらの怪しい土産物まで、頭の中に浮かんでは消えます。