2021/03/15

専門分野外の活動

 

 2017年から足掛け4年ほど、秋田銀線細工を存続させるための活動を行いました。その最大の成果が、秋田銀線細工の拠点工房となる矢留彫金工房の設立でした。紆余曲折ありましたが、2019年に開設することができました。
 
 私は声掛け役と言いますか、工房設立までの大雑把な枠組みの構想を立てて、関係者と協力しながらまとめていく立場で活動しました。計画の立案やプレゼン資料の作成、関係者との打ち合わせなどの多くの部分を行いましたが、表には出ないお手伝いの黒子としての活動でした。
 
 

  そもそもは、衰退の著しい秋田銀線細工を秋田市の工芸として立て直すというテーマを秋田商工会議所が掲げて、秋田銀線細工の展示会を企画していることを、2017年の初春に知ったことから全てが始まりました。
 
 当初の私の認識では、秋田銀線細工はすでに過去のものになりつつあり、このまま衰退して途絶えていくだろうと思っていました。それまで衰退を嘆く声は何度か耳にしておりましたが、作られているものも目新しいものが無く、再興を図れる人材がすでに見当たらない状態になっていたように見えていたので、もう手遅れの状態だと思っていました。秋田銀線細工の展示会についても、いまさらどうしてというのが本音でした。
 
 実際に、秋田市内の職業的な作り手の人数は3〜4人 しかおらず、いつ途絶えてもおかしくない状態になっていたと思います。
 
 

 でも、秋田市伝統の工芸として続いてきたものなので、どのような工芸なのかを、あらためて自分なりに調べてみました。インターネットで世界中の作品を手軽に見ることができますし、調べごともある程度のところまではネット上でも行うことができます。
 
 いろいろと調べる中で思ったことは、これは面白くて可能性が無限に広がる技術なのだなということでした。私にとっては意外な発見でした。完全にこの技法を見る目が変わりました。そして、地元の工芸としてせっかく時間もお金も掛けて作り上げてきたこの技術を失うことは、地域にとってあまりにも損失が大きくて、もったいないと思うようになりました。
 
 まだまだ試されてもいない可能性がたくさんあって、何をやっても新しいと言えるような、未開拓の部分が広大に残されているように思えましたので、この技術をいい形で何とかして残したいと考えるようになりました。少し調べて検討しただけで、あっけなく私は心変わりしたわけです。それまでが無知すぎたのですね。知っているようで、実は何もわかっていなかったのです。
 
 

 秋田銀線細工を残したいと思ってから最初に決めたことは、商工会議所の秋田銀線細工の企画展に出展すると言うことでした。誰にも頼まれていない部外者でしたし、その時点で協力してくれる銀線細工の作り手がいたわけではなかったので、本当はやってはいけない無謀なことでした。

 展示会に至るまでは実際にかなり苦戦しまして、順調にことが進んだわけではありませんでしたが、矢留フィリグリーという制作チームを構成して、多くの作り手の皆様にボランティアでの参加をお願いして、何とか出展することができました。
 
 異素材との組み合わせも重点テーマで、従来の秋田銀線細工とは違う何かを感じる物を、実際に見える形にすることが重要でした。 協力していただいた作り手の皆様には、完全にボランティアで参加をお願いしていましたし、時間の余裕もありませんでしたので、協力して一つの物を作る相手と一度も会わず、一度も話しをすることもないままに形にするというのが、標準的な作業でした。間に私が入って、それぞれの作り手と個別に最低限の打ち合わせをして、あとは作り手におまかせすると言う進め方でした。試作をすることもできませんでしたので、ぶっつけ本番でいわば試作した最初の物を展示しました。
 
 このようにざっくりとした準備しかできない状態でしたが、参加してくださった作り手の皆様の技と感性の高さのおかげで、予定していたもので形にならないものはありませんでした。
 
 来場者からは多くの高い評価もいただくことができました。この出展が、秋田銀線細工を残していくための活動の次の段階に繋がりました。専門外の素人がやり始めたことに、協力していただいた作り手の皆様に心から感謝いたします。
 
 

 展示会への出展が終わった時点で、新たな工房の設立と、工房を構成してくれるメンバーの見通しを立てていましたので、それをどうやって現実の形にするのかが次の問題でした。
 
  秋田銀線細工の復活は、もともとは秋田商工会議所の企画でしたので、展示会終了後しばらくしてから、少しずつ商工会議所と相談する機会もいただいて、工房設立を目指すという大枠は、数人の関係者で徐々に共有できるようになりました。その後、商工会議所の担当の方々とは、工房設立まで協力しあって活動することになりました。もちろん、作り手たちとはまっさきに、工房設立を目指すことを確認していました。
 
 
 
 本当は、作り手に声を掛けて大枠の構想を考えるところまでを自分の役目と考えていました。秋田銀線細工の現状の整理をして、これからを担う事のできる人材や、今後の製品づくりのイメージなどの、ソフト的な部分を見える形にまとめてるまでが私の役割だと思っていました。
 
 あとは商工会議所や秋田市が、公的なフォローも行いながら地域の伝統的な工芸の存続のために動いて、秋田銀線細工を残していくために活動する作り手たちを支援してくれることを期待していました。
 
 でも、実際には公的な動きがすぐに望めるわけでもなく、秋田銀線細工を存続させるための拠点や工房を立ち上げるための具体的な公的な動きが実現することはありませんでした。それでも、商工会議所が秋田銀線細工を再興させる方針を堅持してくださっていたので、そこに可能性がありました。
 
 私自身の活動もボランティアで、何の対価もなく補助金も何も無い無償のものでしたので、継続して活動することには非常に厳しいものがあったのですが、 作り手の今後の人生を左右するようなことを自分で言い出した経緯がありましたし、未開拓の可能性が大きく残されている秋田銀線細工をより良い形で存続させることは、とても重要なことに思えたので、覚悟を決めて活動を続けました。
 
 伝統工芸・産業・教育・文化・歴史・観光 など、多くの分野で秋田銀線細工は地域にとって重要で、失ってはならないものでしたので、何とかしたかったのですね。
 
 

  その頃ちょうど旧県立美術館の再利用が具体的に検討されていることを知り、秋田藩の初代銀山奉行で秋田の鉱山の基礎を築いた梅津家の屋敷跡である旧県立美術館に、秋田銀線細工の工房ができれば、ルーツ・ストーリーともに美しくまとまると一人勝手に妄想していました。
 
 新たに計画されている施設は、文化・歴史・芸術などがキーワードの施設になるようでしたので、秋田市の歴史の成果そのものの一つと言ってもいい、城下町文化の流れを汲む秋田銀線細工は、この場所にふさわしいように思えました。
 
 民家が隣接していることもなく、音の出る作業もできる理想の環境で、販売・観光などの面でも理想的でした。そういった場所は、なかなかあるものではありません。
 
 実際のところは、旧県立美術館の再利用については内容や管理者なども含めて、その時期にはすでにほとんど決まっていたようです。私の妄想がお呼びで無いのは当然のことでした。無理とはわかりながらも可能性を確かめたくて、施設の再利用についてのワークショップに2度参加してみたこともあります。ワークショップの内容の意味はよくわからなかったのですが、私の知らない別世界を垣間見たような、ある意味貴重な経験だったと思います。
 
 旧県立美術館は秋田市文化創造館という施設になり、アートで様々な課題に取り組み、新たな価値を創造していく活動をする施設になるようです。やや漠然としたところもあるので、実際の内容は稼働し始めてから徐々に見えてくるという感じのようですが、良い施設になってくれるといいですね。
 
 

 その後は、資料作りや人への説明など、私にとっては苦手で時間がかかり消耗する作業も多くありました。工房の具体的な場所もなかなか決まりませんでしたが、商工会議所やビルを所有する経営者の皆様のご厚意と協力のおかげで、現在の場所に工房を開設できることが決まり、どうにかこうにか工房設立へ具体的に進んでいくことができました。
 
 工房に参加するメンバーには、進路や将来を決めるタイミングというものもありますので、それにぎりぎり何とか間に合わせられると言う進行状況でした。どの段階でも失敗は許されない状態で、工房開設後のことも考えて仕事も最低限は用意しておく必要もあり、なかなかたいへんでした。
 
 工房内の設備や工事の手配をしたり、夜中に作業に行ったりで、苦戦することがたくさんあったのですが、まずは何とか新たな工房を立ち上げることができて、今後につながる場をつくることができたのは大きかったと思います。秋田銀線細工を今後に繋いでいくための土台ができたので、あとは工房のメンバーの活動を軸に、商工会議所や行政も協力して動いてくだされば、道は拓けていくと思われます。
 
 

 工房の運営については、今まではなかった変則的な形をとっている部分があります。資金が十分とは言えない状態で、作り手が自主的に立ち上げた工房ですので、運営方法についても選択肢は少なくて、できる中で最も問題の少ない方法を取りました。
 
 詳細は省きますが、その手法で工房の形を構成することができたのは、奇跡に近いことだと思います。メンバーの人柄が良くて、秋田銀線細工を愛し後世に残していくという、共通の目標と信念があるからこそ成立したものだと思っています。秋田銀線細工の存続を図ることができるかどうかのぎりぎりのタイミングで、工房に必要な人材が存在したということ自体が、奇跡的なことでした。
 
 現在は、私は矢留彫金工房とは距離を置き、矢留彫金工房の活動には関わっていませんが、今後の秋田銀線細工の可能性は大きいと確信しています。もともと秋田銀線細工には潜在的な高い営業力・訴求力・様々な付加価値がありますので、矢留彫金工房という窓口・受け皿があれば、興味を持つ人は多いと思います。これからきっと、新たな秋田銀線細工の世界が広く開拓されていくことになると思います。
 
 秋田銀線細工再興のために力強く事業に取り組んでいる商工会議所をはじめ、市役所・県庁など地域の伝統や工芸に関わる皆様が引き続きご支援くださり、 次の段階として後継者育成のための方法・システムと言ったものを構築してくださることを願っています。いずれは、矢留彫金工房の第二工房が必要になる時期がきてくれることを期待しています。
 
 

 工房の設立以外のことで私が重点的に取り組んだことがあります。それは、秋田銀線細工の歴史記述の修正です。1980年頃からなのですが、日本史としても間違いのある、たいへん不正確な歴史が語られるようになっていました。それは今後の秋田銀線細工にとって、決して良いものではありませんでしたので、早急な修正が必要でした。工房の作り手たちも同様の考えでした。
 
 古い資料などを探り、以前から調査検討を行っていた専門分野の人にも相談しながら、矢留彫金工房としての秋田銀線細工の歴史観をまとめました。矢留彫金工房のサイトでも公開しておりますし、県の工芸のページの歴史記述にも同様の記述が採用されています。市の広報などでも、以前の間違った歴史記述は使われなくなったと思います。まとめた歴史記述に、大き間違いは無いと思っていますが、今後専門分野の人や行政の担当者などが、より良い物をまとめてくださるかもしれません。
 
 また、秋田銀線細工が秋田市の財産であることを明確にして守っていくことについて、 少しあいまいになっている面があるように感じましたので、秋田銀線細工は秋田市の城下町文化の流れを汲むものであり、秋田市がお金も時間も掛けて築いてきた地域の財産だということを、再度明確にすることも活動の中で心掛けました。
 
 工房を造るだけではなくて、工芸の歴史や背景など土地との関係性も明確にしておくことは、伝統的な工芸としては必須の事だと思いますが、秋田銀線細工はそういった面が少々おろそかにされて不明瞭なところがありましたので、少しでも整理できるようにしました。
 
 そして私の活動の最後は、新型コロナウイルス対応のために少し延長されましたが、2020年半ば頃で秋田銀線細工の活動はほぼ終わりました。ただ、燃え尽き症候群と言えばいいのか、消耗感が残り気持ちや行動を元に戻すのに時間がかかりました。
 
 
 

 
 これは矢留彫金工房のマークですが、「矢」の象形文字と「留」の形を組み合わせたもので、矢留の文字通り全体としては矢を留めている形です。「留」は木工や建築などをはじめとしたものづくりの用語として、それぞれ45度の部材を直角に組む意味で使われます。
 
 シンプルで和を感じる形として描いてみたものですが、いまのところ工房のマークとして使っていただいています。工房の発展とともに永く使われるとうれしいですね。
 
 これから着実に発展して新たな可能性が広がって行くのを見ることができれば、そのときには秋田銀線細工の再興が成し遂げられると思います。
 
 まだ足がかりの土台ができただけで、本番はこれからですが、今後を大いに期待し楽しみにしています。
 
 
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 この記事は、秋田銀線細工の活動を終えて時間が経って落ち着いた所で、自分の活動をふりかえり、忘れっぽい自分のために簡単にまとめておこうと思って書いたものです。わかりやすいところに書いて残しておかないと、何を考えて何をやったのか、本当に忘れてしまうのです。
 
 工房のメンバーや技術支援をお願いしている技術者の方や、初期の展示会や工房設立に協力してくださった皆様も含めて、関係者の方々のお一人お一人のお名前や詳細には言及しない方針で書きました。紹介が無いことを、悪しからずお許しください。