2021/03/17

久保田城穴門前の発掘


 久保田城の穴門の前、秋田藩渋江家の下屋敷出入り口あたりの発掘調査が行われています。旧和洋高校校の敷地だった場所ですが、建物のあったところはすでに地層が破壊されていたために、前庭であったごく一部のみの発掘調査です。私の工房のすぐ目の前の位置にあたります。
 
 

 
 井戸は4つ見つかったそうですが、そのうちの一つはもしかすると井戸ではなくて、他の目的に穴かもしれないとのことでした。井戸の位置は、古い絵図に記されていて、おおむねその絵図の位置どおりに見つかったそうです。井戸の木枠はけっこう大きいので、この下にも続いていると思われます。
 
 

 手前に写っている木の杭は、旭川を埋め立て流れを変える工事の一番最初の杭の列です。築城を始めた時の旭川は、この位置を流れていたということです。木の杭の向こう側1メートルあたりが当時の川の際で 、杭を打ち少しずつ埋め立てて川の流れを変えて、現在の外堀の位置まで10〜20メートルほど流れを変えて、渋江家下屋敷の土地を造成したということだと思われます。
 


 この黒い斜めの筋、これが最初に埋め立てた境目の線とのことでした。人力で川の流れを変え始めた最初の一歩が、現在まではっきりと残っていたわけですね。地層って、すごいですね。


 
 県民会館跡地の発掘と同じで、今回の発掘も時間の制約が大きくて工期も残り少ないために、この木の杭はこのあと間もなく抜かれて、次の作業が進められるとのことでした。
 
 
 
  私はこの写真を、まさに当時の川の流れの上に立って撮影しました。湿気った土の上に立ってシャッターを切っただけではあるのですが、気持ちがちょっと高揚したと言うか、何かうれしい気持ちになりました。
 
 現在の旭川の流れになるのは、築城を始めてからおよそ30年後のことで、今回発掘している場所から見るとおよそ190メートルほど西側に新たな旭川が造られたことになります。
 
 私の工房の目の前ではこの3年ほどの間に、旧県民会館・旧和洋高校の解体工事とあきた芸術劇場の建設工事が行われており、現代の土木工事・建設工事における重機の力を間近で見ておりますが、 昔の人は人力で地形を変える工事をやり遂げているわけですから、本当にすごいですね。旭川の流れを変えることに人生を掛けて、一大事業として携わった人たちもいたのかもしれません。
 
  時間のスケールや仕事のスケール、今と昔とどちらが大きいのか小さいのか、よくわかりませんね。